【間章】 君の名は

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「あの……、他に何もないの……」 「俺は何も要求した覚えはない。それは姫の大事なものなのだろう」 「アスランディアは、いつ離宮に来れるのかわからないのでしょう? だったら、いま何かしておきたいの。でも、何もないの。どうしていいかわからないの。だからきっと、痛いの……」  言いたいことがあるはずなのに、うまく言えない。必死に考えてみたけれど、考えれば考えるほどめちゃくちゃになる。泣きたい気分のまま俯き、林檎を差し出した。 「まぁ、そうだな。あんまり姫が食い物の話ばかりするから、腹は減った」  独りごとのような呟きの後、不意に手が軽くなった。  見上げると、アスランディアの化身が、手の中で林檎をもてあそんでいた。 「それ、生でごめんなさい。お菓子は持って来れなかったから」 「別に。俺はこのままの方が好きだ」  言うなり、林檎に歯をたてて噛り付く。さくっという小気味良い音がした。丸ごと林檎を食べるところなど初めて見たセリスは、大きく目を開いて真剣に見つめてしまった。その視線に、アスランディアの化身は片目を細めて渋い顔をする。 「姫の手でずいぶん温まっている。ぬるい」 「美味しくないの?」 「美味しいよ」  とてもそっけない口調だった。  だが、美味しいの一言を聞いた瞬間、先ほどまで胸にあった痛みが驚くほどすんなり消え去った。 「そうでしょう! 美味しいでしょう!」  真面目くさった顔で頷いたアスランディアの化身は、もう一口林檎をかじる。そして、空いている方の手ですっとある方角を示した。 「ここをまっすぐ行くと、離宮に着く。そろそろ騒ぎになっているかもしれない。急いで帰るように」 「はい!」  やり残したことは、もうない。あとは、急いで帰るだけ。  そう了解して、別れを告げようとしたそのとき。 「姫様ー!」  すごく近いところで声が上がった。  アスランディアの化身は、地面に置いてあったカンテラを掴むと、さっと身を翻した。 「どうやら俺がこの場を去った方が無難のようだ。またな、小さなイクストゥーラ」 「アスランディア……、約束よ! 絶対に離宮にきてね!」 「わかっている」  微笑んだように見えたが、次の瞬間にはその姿は木立の間に消えていた。  * * * * *  その後セリスは離宮から駆けつけた女官に涙ながらに怒られ、連れ戻された。  帰ってからも、一晩何をしていたのですと散々叱られたが、結局アスランディアに会ったのだとは言えなかった。なぜだか言ってはいけないような気がした。  二人で交わした約束は心の奥底へ大切にしまいこんだ。  その記憶は、悲しいことに時間が過ぎるにつれ少しずつ薄れていった。  どんなに忘れまいとしても、一年、二年とたつうちに淡くなっていった。  十年もたってしまった今となっては、本当にあった出来事なのかすら確信が持てない。  それでも。  男の人に会ったことがない自分に、男の人の記憶がある以上、それはきっと本当にあったこと。  アスランディアと呼ばれて、一度はむっとしていた以上、アスランディアではなかったんだろうな……ということは、ときどき考える。とはいえ、本当の名前は聞きそびれてしまっているし、どうやって探せば良いのかも見当がつかない。  セリスにとって頼りにできるのは、あのときの約束だけ。 「結局、離宮には来てくれなかったな……」  窓の外の雨を見つめ、セリスは声も無く、アスランディアのばか、と呟いてみた。  ちょうどそのとき、廊下の方で何やら騒がしい物音が聞こえてきた。  
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