【第二部】 砂漠からの風 砂漠の黒鷲

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【第二部】 砂漠からの風 砂漠の黒鷲

 女兵士の悲鳴が上がった。  鏡の前で髪を一つに束ねようとしていたセリスは、パッと手を放す。そのまま腰に手をあて、ラムウィンドスから渡されていた剣があるのを確認した。小型で軽量で気休めと言っていたが、紛れもない武器だ。 「曲者──っ!」  叫び声の合間に、いくつもの足音。雷鳴の如き轟きが押し寄せてくる。  剣を持ち、扉の前まで駆け寄ったものの、セリスは躊躇した。 (出て良い? 隠れるべき?)  決めかねている間に、鈍い音。ドアに何かがぶつかった。咄嗟に、ノブを引いてドアを開き、陰に滑り込んで身を隠す。  その次の瞬間。  束ねられた白金色の髪が、空を裂く。  続いたのは金属のぶつかる澄んだ音。  黒革の長靴で絨毯を踏みしめ、ラムウィンドスが廊下から繰り出された剣を剣で受けていた。  唇を引き結んだ、張りつめた横顔。全身に気迫を(みなぎ)らせたその姿は、いつもよりずっと大きく感じる。  ラムウィンドスは、迫っていた相手を力づくのように剣で押し返し、あろうことかすかさず長い足で重い蹴りの一撃を加えた。  ドアの陰から顔をのぞかせていたセリスは、息を止めて見つめる。  そこにいるのを見透かしていたかのように、眼鏡を手で軽くおさえ、ラムウィンドスが視線を向けてきて鋭く言った。 「下がっていろ! 出てきてどうする!!」  再び向かってきた相手の剣を剣で受けつつ流し、押し返す。そのまま姿が見えなくなった。  外ではまだ悲鳴や怒号は飛び交っている。 「さ、さが」  足がすくんでいた。  離宮時代も襲撃を受けたことがあるとはいえ、ここまで侵入者に接近された経験はない。ラムウィンドスが去った途端に、歯がカチカチ鳴り出した。 「どうしよう……」  手は、剣を落とさずに掴んでいるだけで精一杯。  ものすごく近いところにある荒んだ空気が、怖い。王宮は安全なはずなのに、どうして。何が。  すぐに、そんなことを考えた自分を激しく嫌悪した。  ラムウィンドスのような、王宮勤務の人間がこんな目にあっているのは、セリスが王宮に来たせいだった。王宮が安全な場所でなくなってしまったのは、セリスのせいだ。  なのに、当のセリスが「どうして」だなんて。 「わたしが悪いのに……!」  身体がカッと熱くなった。そのまま、セリスはドアの影から飛び出す。気持ちだけ。廊下につま先が出たところで、視界を青灰色の軍服にふさがれた。 「姫さま、そこ危ないわ!」  聞きなれた、独特な響きを持つ声音。アーネストもまた何者かと刃を合わせている。  普段、男性兵士の間にいることが多いアーネストには、華奢な印象があった。距離を詰められて初めて気づく。細身ながらしっかり上背があり、熱を放つ強靭な肉体の持ち主であることに。誰かを守るに足る、紛れもない強さを持つ男性であることに。 (わたしは……守られるだけ?)  下がれとか、危ないとか。  襲撃者は自分を手に入れるのを目標としているはずだ。  たとえ相手がセリスの顔を知らなくても、イクストゥーラ王家の銀の髪がある限り、必ず見分けてくる。 「狙いはわたしなのでしょう!」  身をもってかばい立つアーネストの横をすり抜けた。  たとえさらわれても、自分が殺されることがないのは知っている。なにせ、存在そのものに価値のあるという『幸福の姫君』なのだから。けれど、ここでセリスを守ろうとしている者たちは、命を落としてしまう危険性が十分あるのだ。 (守られている場合ではないの!)  左右に目を走らせる。見たこともない黒衣の男たちが、衛兵や駆けつけたらしい訓練着姿の師団の者たちと剣を合わせていた。  廊下の隅の方に、身を寄せ合っている女官たちの姿が見えた。中のひとり、マリアがセリスに気がつき、口元を両手で覆う。 「姫さま……!」  組み合っていた相手を短剣の柄で殴りつけた黒衣の男が、マリアに目を向ける。  そして、その視線を追うように振り返る。  炯々と光を放つ黒瞳が、セリスの姿をとらえた。  同時に、セリスもまた男の姿をその目に映した。  暗褐色の髪に、紅蓮の布を巻きつけている。日焼けした肌に、彫の深い顔立ち。背は高く、肩幅も広い。まるで壁のようだと思った。立っているだけなのに、圧倒的な存在感がある。 「『幸福の姫君』か」  口の端をつり上げた男が、呟きをもらした。格別大きな声ではなかったのに、朗々と響く。  衛兵の一人が走りこんで剣を振りかざすが、男はそちらを見もせずに片手で構えた短剣で受ける。そのまま、無造作に押し返す。視線はセリスに向けたまま。  射すくめるようなそのまなざしに、セリスも負けじと見返す。目に力をこめて。  笑みを深めた男が一歩踏み出してきた。
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