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月を呼んだ日・帝国の見果てぬ日々
「アルザイ様がわたしの名を使い、ゼファード兄上も素知らぬふりをして使っている以上、わたしはラムウィンドスと月に一緒に行けません。ここにも残るつもりもありません。……草原へ行きます」
ソファに腰かけたセリスの前で、イグニスは片膝をついたまま話の最中、微動だにせず耳を傾けていた。
しばらく前から、一切何も言わずに口をつぐんでいる。眉をきつく寄せているせいで、やや怒っているかのように見える表情。実際、紺碧の瞳の奥には猛々しい炎があった。
青い、炎。
「私はね、この時代この地上で一番面倒事を背負っているのはうちの陛下だと思っていたんだ。年齢はあなたと変わらない。見た目も……似たようなものかな」
ゆるく首を傾げる。目が、一瞬セリスから逸れて遠くを見た。
壁の向こう。遥か砂漠の彼方。灼熱の昼と冴え渡る星月夜を幾日も越えた先に聳えるは、都市を守り続ける堅牢な城壁。
光を湛えてキラキラと光る群青の海。
古き帝国の威容を誇る白亜の宮殿。
肌に吹き付ける潮風を、頭上を飛ぶ海鳥の声を思う。
追憶を閉じ込めるように瞼を閉ざすと、視界が一瞬にして紅蓮の業火に包まれた。
血の赤い川が石段を流れて行き、黒い煙が立ち上り、逃げ惑う人々の背に刃は突き立てられ、豪奢な衣装に身を包んだ少女皇帝が両手を掴んで引ったてられてくる。地に膝をつかされ、細い首に振り下ろされるのは、血糊に汚れて刃こぼれした剣。
(陛下……!)
何度も。
何度も何度も巡る悪夢。
イグニスは心のままに剣を持って戦うにはあまりに弱く。身体を投げ出して守ろうとしても、刃は自分の身体を刺し貫いて彼女をも串刺しにする。
――忠臣だな。
嗤う男の声が耳に響いて意識は急激に暗闇に落ちて行く。
(アテナ。細い肩に幾万の民を背負うローレンシアの皇帝よ。あなたを無残に死なせたくない)
顔を上げ、目を開ける。
銀色の月光を閉じ込めた髪。涼やかで理知的な目元、通った鼻梁、形よく引き結ばれた唇。少年のようにも少女のようにも見える、綺麗な姫君。
(役に立ってくれる? あなたが地上にもたらすという幸運は、私の皇帝と理想郷にも届くのかな)
イグニスはゆっくりと立ちあがった。
物言いたげに見守っているラスカリスと、目で何かを訴えているライアに気付き、口元をほころばせる。
心配ないよ、と。
「馬鹿王子に役に立ってもらうしかないね。私が一人でのこのこ国に帰っても、陛下はあんまり喜ばないと思うけど。仕方ないよね。壁内に入る前に、殿下にはやり損ねた仕事をしてきてもらおう」
言いながら、自分の手を見下ろす。
幻の赤い血が染みだし、夥しいほどに溢れて零れ落ち、床に届く前にかき消えた。
(すべては幻。今はまだ)
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