月を呼んだ日・月が出た

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月を呼んだ日・月が出た

「『月が出た』」  人払いのされたマズバル東方、凱旋門にて。  旅路に必要なラクダや荷を整えて待っていたロスタムが、待ち人に対して無感動に告げた。 「良い天気ですね」  騎乗の人であったセリスが応じ、同乗していたラスカリスが降りやすいように手を貸そうとする。  断って、身体を傾けたセリスを、ほとんど引きずり降ろすように抱き留めて、ロスタムはことさらぶっきらぼうに言った。 「待った」 「ごめんね」 「行くならいいんだ。気が変わったかと」  肩をそびやかして、伏目がちに視線を流してきたロスタムを見上げ、少年の装いをしたセリスは「まさか」とひそやかな声で答えた。笑いながら足を地につけ、ロスタムの手を離れる。  襲撃の夜、内側に呑み込んだ草原の野獣たちが、砂漠へと意気揚々出て行くのを止めきれなかった門はいま、静まり返っている。  そこを打ち破ったのが、構造も警備も知り尽くした手練れのアルスであったがゆえに、戦闘そのものは長引くことなく、壁の損傷もなかった、という。  確かめるように、セリスは隙間なく積み重ねられた日干し煉瓦に指で触れる。 (壁を傷つけなかった……。アルス様は、マズバルがもう一度防衛戦にさらされるのを知っていた……? 真実草原の側に立つ心積もりならば、いくらでも内部から瓦解させる方法があったはず。あの人……サイードとも連絡を取っていたのだから)  それが直ちに、アルスの真意は裏切りとは別にあると、断じる根拠になり得ない。  たとえば、サイードがあらかじめイクストゥーラ遠征を見越していたのならば、他の将や王子に簡単に手柄を挙げさせない為に、マズバルを削り切らなかった線も捨てきれないからだ。 (それならそれで。草原の結束はまだそれほど強くない。内部で覇権争いが激化すれば、周辺の制圧は遅らせることができる……)  サイードとアルスの目指すところを知りたい。共闘の余地はないのかと。  ――現在サイードは第一王子の配下として動いているが、当の王子がサイードの突出しすぎた能力を疎んでいるという話もある。いずれ毒を盛って始末されるのではないかと、サイードも気付いていないはずがない。であれば、イクストゥーラを落としたらそこを根拠地とし、反旗を翻す可能性もある。  エルドゥスとナサニエルの見立ては一致している。  ――なぜ背信が疑われている状況で、サイードはイクストゥーラ攻めに?    セリスの当然の疑問に答えたのはナサニエルであった。  ――まず一つ、将として優秀。その上、イクストゥーラの内情に、他の誰よりも明るいアルスも従えている。第一王子は、サイードに月を落とすだけ落とさせて、軍に潜ませていた自分の配下に暗殺させるつもりかもしれない。だから、イクストゥーラ制圧後が一番危ないのは、サイード本人も知っているはず。その前に直接話すことができれば、寝返らせることもできるかもしれない。せめて、真意を聞くことだけでも。  サイードとセリスの直接対話を望むのはナサニエルで、エルドゥスもその案に関しては異存がないとのこと。その為に、二人はセリスの草原行きに賛成し、道を開くと言っている。  ロスタムは最初だけ同行し、適当なオアシス都市から別行動を取る手筈になっていた。  セリスは、壁に背を預け月を仰いだ。  夜の大気は冷ややかで、透明度を増している。肺に沁みこむ澄んだ空気を吸い込んだ。 (サイードの考えを変えられる? わたしが? 過信はない。だけど、やらなければ。イクストゥーラが戦場になる前に)  セリスの背後はラムウィンドスに任せてある。  他の誰でもない。彼自らがゼファードを必ず救うと約束した。  
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