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月を呼んだ日・門出
ほどなく、遅れて王宮を出たアーネストとナサニエルが、馬首を並べて到着した。
眼鏡で顔を隠していないナサニエルは、白の旅装束に身を包み、頭衣からわずかに銀の髪をこぼしている。アーネストは、やや戸惑った表情をしつつも手を差し出す。ナサニエルは当然のようにアーネストの手に手をのせ、馬から降りた。
そのたおやかな所作は、紛れもなく「女性」を思わせた。
――もしどうにもならない場面になったら、私は一度だけあなたを助ける。月神の巫覡は王家の影だ。あなたにこの命を捧げる。
感情を押し殺したまなざしで、ナサニエルはセリスの前に跪き、沓に口づけようとした。
その行為は止めたものの、作戦自体は理解した。
この旅の道中、やむを得ぬ場面で「姫」と呼ばれるのはナサニエル。その側には、「姫君の美貌の従者」であるアーネストが立つ。
二人で、敵を引きつける。その間にセリスはエルドゥスとともに道の先へと進む。それが、ナサニエルが同行する理由。
アーネストの視線がセリスに向けられる。訴えるような、求めるようなまなざし。
わかる。彼が何に耐えているか。セリスが彼に下した命令を、撤回して欲しいのだと。それでいて、二人ともそれがあり得ないこともわかってしまっている。ぶつけられる視線に、せめて逸らさず応えるのが精一杯でセリスも見つめ返した。視線を逸らしたのは、アーネストだった。
横顔に、苦渋が滲んでいる。
(……呑ませてしまった)
彼がセリスを守ることをすべてにおいて優先するのをよく知った上で、「彼自身がセリスを守るよりも、より確実な案」として、ナサニエルの側に仕えることを、ねじ伏せるように受け入れさせた。
本当の危険が迫ったら、何が何でもナサニエルを守って血路を開いて欲しいと。
月の姫がその人であると、疑われないために。
遠くから、軽快な足音を響かせて、エルドゥスが馬を走らせてきた。
騎馬民族の出らしく、ひどく生き生きとした表情で「イグニスが放してくれなかった」と言いながら、ひらりと飛ぶように地上に降り立つ。
セリスの元まで大股に進んできて「姫、よろしく頼む」と実に軽い口調で言った。
「わたしの方こそ。ご尽力感謝いたします」
黒曜石のような瞳を見つめて言うと、エルドゥスはふっと口の端を吊り上げた。
「そうだな。感謝は有難く受け取っておくが、これは俺の為でもある。草原の民の幸福を考えつつ、帝国を守り抜かなければならない。あなたには役に立ってもらう」
飄々として、どこか突き放すような物言い。
(この人はわたしを全然認めていない)
幸福の姫君なる予言を信じていなければ、セリス本人は何かに秀でているわけでもない。見た目通りのひ弱な存在。それゆえに、何ら期待をしていないのだと。
せいぜい、出来る範囲で利用し尽くすことしか考えていないに違いない。
(構わない。利害が一致している間は共に歩めるはず。それ以上何かを望む相手ではない)
「……黒鷲も甘いですね。あなたに本当に予言通りの力があるのなら、行かせるべきじゃないのに」
この時間、普段なら開くはずもない門が開く。
王宮からの道も、見逃された。
出て行くのを知っていたように。
草原の王子であるエルドゥスともども、本当に解き放って良いものかと、他人事ながらにラスカリスは気になって仕方がないらしい。
「イグニスを人身御供に捧げた」
悪びれなく言うエルドゥス。ラスカリスは肩を落として溜息をつく。
「イグニスは、エルドゥス殿下のものじゃないんですが。本来は皇帝陛下のそばにいないといけない人間なんですよ」
「知ってる。だけどあいつアテナのこといじめるからな。このくらいの距離感がいいんじゃないか」
「良くないです」
ごくごく常識的な受け答えをするラスカリスに、エルドゥスは華のある笑みで応えていた。
砂漠の旅に、ここからはラクダに乗り換えることになる。開かれた門の前で、ラクダをひいたロスタムが佇んでいた。
これ以上待たせるわけには、と連れ立って進む。
旅人を迎える凱旋門は砂漠に面した外側から、彩色したタイルでうつくしく装飾されている。
その内側の壁に、腕を組んで背を預けている人影があった。
目を凝らして、セリスは息を飲む。
そばを歩くエルドゥスが、同時に気付いて陽気な声で言った。
「お、俺たちが旅立った後に門を閉めてくれるのは総司令官殿か。これはまた贅沢な」
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