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屋根も扉もない檻
遠くから撥弦楽器の音が聞こえた気がした。
そして笛。溶け合って甘く激しい調べを奏でている。
(気のせいじゃない?)
風に耳を澄ますと、横を歩くエルドゥスが艶めいた笑みを浮かべていた。
「聞こえる。この街は、立ち直りが早いね」
耳が良いのだろう。セリスよりもはっきりと音をとらえている気配があり、凛々しい眉の下、黒曜石の瞳が強い輝きを放っていた。
一団を見とめたラムウィンドスが、組んでいた腕を解いて、歩いて来る。
月明かりの下、鋭いまなざしがただ自分にだけ注がれているのを感じて、セリスは足を止めた。
あまりにも強すぎる。何も隠す気がない。
(知らなければ……)
彼が二人きりの夜、どれほど切実に、全身全霊をかけて求めてくるのか。
知らなければ、彼は人ではなく、決して手の届かない存在だと焦がれるだけで済んだのに。
――姫……。今だけあなたを、セリス、と呼ぶことをお許しいただきたい
――ずっと、心の中だけで
跪いて愛を乞うくせに、することのすべてが容赦なく。
痛いと訴えてもゆるしてはくれなかった。
――痛くしているんです。逃げようとしたでしょう
――俺から逃げるのは許しません
それでいて、傷つけることに激しく懊悩する。
問い詰めれば、優しくする方法を知らないと後悔を口にし、その末に。
――怯えるあなたにすら欲情してしまう
(怖いんですよ……。怖いんですってば目が。鏡。鏡見てくださいよラムウィンドス……ッ)
愛を疑わないセリスですら「ちょ……っ」と足が止まるのだ。
その顔でここまで来たのか。
その顔で決起を促し兵を集めて月へ向かうのか。ゼファードと旧交を温めるつもりなのか。そういったこと、全部。
(無理だと思います……っ。いまのあなたはものすごく気が立っている顔をしていますよ)
そばに寄ればきっと、喉を食いちぎる勢いで噛みつかれてしまう。
気高くうつくしく、獰猛な獣。
身体の奥底に彼が残した疼痛が、不意に生々しく蘇ってきた。
しかし、そんな素振りを見せたら、絶対、絶対絶対、周囲にひとがいることを無視して「まだ痛みますか」なんて聞いてくる。
(なんて答えたら満足なんだろう、その質問。難しすぎる。痛いと言っても、出発を遅らせることなんかできないのだから)
もし「痛いですとも」と訴えれば、気休め程度に謝ってくれるのだろうか。「はじめてなのに、激しくしてすみません」と? ここで? いま? ラムウィンドスが?
想定問答だけで気が遠くなったセリスの前に、さっさと歩いてきたラムウィンドスが立った。
目が怖いままだ。
セリスは俯きながらちらちらと顎の辺りに視線を向け、思い切って言った。
「また会えるといいですね」
他に、言葉が浮かばず。
以前の別れのときは、ラムウィンドスに唇を奪われた。すると決めて部屋まで忍んできて、完遂していったのだ。セリスの意思などあったものではない。
だから今回は先に告げた。偽らざる彼への思いを。それはもう、好きという思いを込めて――
顔を上げた。
見えたのは、さっと身を翻して立ち去るラムウィンドスの背だった。
(ん……?)
何も返事がなかったような、と思ったセリスの耳に悲鳴が届いた。
「間違うてる、間違うてる!! こっちやない、なんやあれ、べつにふられたんとちゃうで」
傍目にも力が入っているとわかる強さで首に腕を回され抱き着かれたアーネストが、ばしばしとラムウィンドスの背中を叩いていた。
「やめてほしいわ……。力強いし、痛くてかなわん。なんなん……」
抵抗しても引き剥がすことができなかったらしく。
アーネストはやがて目を閉ざすと、背中を叩いていた手をあやすような強さに変えて、しまいにラムウィンドスを抱きしめていた。
「しっかりせえや、アホ……」
ようやく、アーネストの肩から顔を上げたラムウィンドスは、アーネストの顔を覗き込むようにして、抑揚のない声で言った。
「愛してる」
「間違うてる、間違うてるからね!! いい加減に……」
ぐいぐいとラムウィンドスを引き剥がそうとしていた手の動きが、止まった。
アーネストの耳に唇を寄せたラムウィンドスが、他の者には聞こえない低い声で囁きをひとつ落として身体を離す。
「……なんやの」
耳をおさえて呆然と呟いたアーネストに、笑いを閃かせたラムウィンドスが、愉快そうな顔で素早く答えた。
「さて。練習完了」
「オレで練習……すんなやっ……」
アーネストが拳を振りかざした。
大雑把に繰り出された拳をかわしながら、ラムウィンドスが明るい笑い声を響かせる。
「言い方が悪かったか? ではそうだな、模擬戦としよう」
「違う!! そうやない!! そういうのは……っ」
言葉に詰まったアーネストに鮮やかに微笑みかけて、ラムウィンドスはきっぱりと言った。
「嘘は言っていない。俺はお前も大事だ。本当はどこにも行かせたくない。俺の側にいれば、目も眩むような勝利に酔わせてやったものを」
「抜かせ」
「俺の背中よりも、もっとかけがえのないものを預けなければならない。お前ほどの男に、戦場で功績を立てる機会を作れないで悪かったな」
月の国にいた頃、憧れて追い続けた背中。
もし「一緒に来い。戦場に立て、俺の背中を任せた」と言われたら、命が粉々になるまで守り抜いた。
その思いは今も色褪せることなく。
けれど同時に、決して口には出せないから。
「そういう、上官ヅラはええよ。わかっとお」
手短に答えて顔をそむけた。ずっと見ているのが、辛かった。
「うん」
頷いて、ラムウィンドスが踵を返す。
改めて、セリスの前に立った。
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