始まりの日に祝福を

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始まりの日に祝福を

 ラスカリスが、ラムウィンドスと旅立ちを見送り、閉門に立ち会った旨を告げて、部屋を辞して行った。  手元を照らす灯りをいくつか卓にのせて、イグニスは書類に目を落としていた。  彼の手になるものではない。素早く殴り書いたような筆致だが、イグニスよりだいぶマシな明瞭さで、細かな数式と補足説明の文が添えられたものだ。 (現在使用されている太陰太陽暦を、完全に太陽の暦に書き換える、か……)  暦の改変に関する覚書。  送り出すべき者たちを送り出した後、ひょっこりと姿を見せた才人が置いて行った。ほろ酔いの顔に人好きのする笑みを浮かべて。酒肴を楽しんできた後なのは明らかなのに、手渡されたそれには一切の無駄も淀みも無い思考が書きつけられていた。  太陽の神。月の神。  古来、命を奪う酷暑の源である太陽が沈み、安寧の闇の訪れと月の出をもって一日の始まりとする思想があった。今はやや廃れたとはいえ、それゆえに月を上位としてきた考えは帝国でもなじみが深い。  “月を呼ぶ人々”  ローレンシアの言葉でも、物事の始まり、「朔日」を「月を呼んだ日(カレンダエ)」という。  その信仰を、神話を、根底から覆す。  一日の始まりを日の出に置き、精密な計算をもって、太陽を中心とした暦を編む。 (土地によっては月神はただ『三十』とも呼ばれる。文字通り暦と同一視されてきた。しかし、太陽の暦がこの地を支配すれば、人々は月の光とともに生きた時間を忘れ、太陽優位に考えが変わっていく)  新たな神話を、人の手によって構築する。  選ばれし者の称号を必要とする王の為に。  崇めるべきは太陽である。灼熱の世界に生き、光とともに歩め。  “カルナインの都の大灯台が指し示す光の道筋を”  数式とともに残された走り書き。 (あなたは「灯台」が何かを知るのか……? 海のない地に生まれ、生きて来たあなたが。千里を貫く目をお持ちか)  エスファンドの筆跡を指でなぞって、イグニスは紺碧の瞳を閉ざした。  寝ないの? と言い続けていたライアは、いつの間にかソファに腰かけたまま寝息を立てている。  目を瞑ってもうたた寝すらできずに椅子から立ち上がったイグニスは、ライアの元へと歩み寄る。  そのまま、声もかけずにじっと見つめていた。 「……寝ないの?」  すうっと寝息を止めたライアが、うっすらと目を見開く。  その瞳が自分の姿をとらえていることに、妙な高揚と気恥ずかしさを覚えながらイグニスは「そのうち」と短く答えた。 「嘘。寝ないくせに。いい加減にしなさいよ」 (叱られた。この私が)  なんて言い返そうか、少しの間考えた。遅れて、そんな簡単な受け答えにすら頭がまわらなくなっている自分に気付いてしまう。  躊躇ってから、イグニスはライアの横に腰を下ろした。 「少し話そうか」 「何について」 「決めていない。何か聞きたいことはある?」  じいっとライアは目の前の闇を見ていた。やがて、くぐもった声で言った。 「何も」 「そう」  答えた後に、溜息がもれた。著しく落胆していた。 「どうしたの。いま、あなた落ち込んだわ」  その嘆息を聞きとめたライアに問われて、イグニスは苦笑を浮かべる。 「私に興味を持って欲しかったみたいだ」 「そうね。たしかに、あなたはすぐに会うひと会うひと、『あなたは何者?』と聞くわ。あれは興味からなの? 私もあなたに聞いた方が良かった? ……だけどもう、結構知っているのよ、あなたのこと」 「そうなの?」  意外な思いから、イグニスは身を乗り出してライアの顔を覗き込む。 「今の興味は、果たして帝国宰相イグニス閣下は寝るつもりがあるかどうかくらいね」 「寝るつもりか……。夜に寝るのってもったいないんだよね。涼しくて頭も冴える。私は夜が好きだよ。今日は月明かりもあるし」 「私はあなたの話し相手になるつもりはないわ。だって、私の今の仕事はあなたがきちんと睡眠をとって、健康を維持できるかを見張ることなんですもの。喋る元気があるうちに寝たらいいと思う」  小憎らしいほどに。  あなたに構うつもりなどないと冷たく線を引いて、それでいて気遣ってくるのが始末に負えない。  イグニスは溜息を堪えてにこっと笑ってみせた。 「そんなに言うなら、寝てもいいよ」 「そういう言い方は好きになれないけど、『ありがとう』」  煽っても、かわされる。 (わかっていたけれど。賢い女性だ。踏みにじられることなんかあってはいけない。大切にされて、愛されるべきひとだ。知っているんだ、そんなこと。あなたが側にいて、さりげなく手を貸してくれる度に思ったよ。何度も。あなたは幸せになるべき人だ)  イグニスはソファに深く背を預け、ぽつりと呟いた。 「あなたが一緒に寝てくれるなら、寝るのに」 
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