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宵の明星、暁の明星
旅の途上にあっても、彼は祈りの方角を見失わない。
酷暑を避けて夜間に移動すべく、昼間は体力の温存に徹し、活動を開始する夕刻。
彼は宵の明星を見つめている。厳かな横顔だ。
その星の下にいる想い人の無事を願っているのだろうか。
草原の王子と、帝国の皇帝が国も立場も超えて交わしたのは、いかなる約束なのだろう。
離れていてもその身を案じ、相手のことを考えて動く。
(側で守れたら、もっとずっと楽だよね)
宵の明星に背を向け、目指すは東。
エルドゥスと並んでラクダの背に揺られながら、セリスは星と砂の間を吹く風をやり過ごす。砂が目に入らぬように目の周りに獣脂を塗っているが、それでも防ぎきれるものではない。
風がやむと、ただひたすらに静かであった。
砂丘は月光に片側の斜面を捧げ、かつ片側を影に沈め、どこまでも広がっている。
視界を遮るものはない。
絶望的に広く、人はあまりに小さく、無為無力だ。きっとこの砂漠は途方もない命を呑み込んできて、これからも多くを奪うのだろう。
この過酷な地での戦いを、イグニスにも、選ばせてしまった。申し訳なく思うのは傲慢であって、彼はすでに決めていたはず。「最善」だと信じる行動を取ると。それは必ずしも、「したいこと」とは一致しない。
(どうして皆、「したくない」けど「しなければならない」ことを選択できるのだろう。「国」「都市」「民」「歴史」すべて「私」より優先すべきものだろうか。得られるものは「誇り」?)
セリスは。
ラムウィンドスが、選ぶのを知っていた。必ず、月の息子を助けに行くと知っていた。
一方で、ラムウィンドスも確信していた。月の姫が自分と別れてどこかへ行こうとしていることを。
二人であてどなく月の砂漠に走り出して、太陽の下で折り重なって死すべき未来など、あり得ない。
セリスは、ラクダの背にあって、そっと腹部に手を置いてみた。
――孕んでるかどうかなんか、わからないよ。星でも読もうか?
診察したエスファンドには軽い調子で言われてしまったが。
単純に、とても健康な肉体を持っていることに気付いてしまった。二人とも。砂漠の下に飛び出して行っても、絶対に死ぬ前に戻って来るだろう。生きる方法を探してしまうだろう。戦争や病に倒れなければ差し当たり寿命はまだ先だ。そこまでどうにかして生きる算段をしてしまうはず。
生きる為には都市を侵略から防衛する必要があり、もっと言えばそこを戦場にしない為にそれ以前に叩いておく必要があり、その為には目的を定めて向かっていかないといけない。
(生きる為だ。死なない未来があると信じているから、今は自分にできる行動をしている……)
エルドゥスに視線を向けると、ちらりと見返された。
言っても、意味を成さない、仕方のない言葉が溢れ出しそうで、セリスはぐっと飲み込み、前を向く。
何か言いたいらしい、というのは察せられてしまったらしく、エルドゥスが低く甘い響きの声で囁いた。
「あまり思いつめるなよ。どうも、繊細な奴は扱いにくい。草原の人間は、雨が降るのを待つより、雨が降ったところへ行く。じっとしていると状況が悪くなるだけだ」
「わかりますが……。そして、温暖で水が豊富で住みやすい土地が見つかれば言うことないですよね」
「そうだな。そこに人が住んでいれば追い出せばいいだけのこと。簡単な理屈だろ?」
「一緒には住めないというのが」
「取り分が減れば貧しくなる。そんなのは誰だっていやだ。だから戦いになる」
そこをなんとか、ですね……とは思うものの、エルドゥスの言っていることは十二分に理解できる。
持っている人間がいて、欲しいから、奪うのだ。欲しがるなという問題ではない。
「『血で血は洗い流せない。血を落とせるのは水だけだ』という言葉がありますが」
セリスが嫌々ながら言うと、エルドゥスは薄く笑った。
「何しろ水はいつだって足りていない。足りない水を求めてまたもや血が流れる」
「水」
(地下水路事業は止まってしまうのだろうか。水があれば農耕が可能になり、食糧が増えて、暮らし向きは豊かになるはずなのに)
セリスの考えを読んだように、エルドゥスが溜息混じりに言う。
「マリクは地下水路についてどのくらい知っている」
マリクという偽名を、旅の間も使うことになっている。
セリスは少し考えてから、口を開いた。
「『愚か者が井戸を石でふさぐと、四十人の賢者が集まっても直せない』という言葉がありまして」
「なんだその言葉攻めは」
先程から、引用で応じるセリスに対し、エルドゥスはくすりと笑みをもらす。構わず、セリスは続けた。
「長い距離、要所要所で竪穴を掘り、なおかつ地下でその穴を繋いで、水源と目的地の間に水を通すわけですが、この竪穴、つまり井戸の一つでも埋められてしまえば地下水路はその機能を失います。壊すのは簡単なのです。そこで、道理をわきまえている者同士の戦争では、地下水路には手を出さないという了解がありますが……。手段を選ばぬ者、或いは地下水路のなんたるかを知らぬ草原の民がオアシス諸都市に攻め込めば『落とす為に地下水路を壊してしまう』こともあり得るのではないでしょうか。兵糧攻めより確実だとは思いますが、そうして機能を停止した都市を手に入れても、滅びの道しかありません」
「そうだな。太陽の国など見る影もない、ただの廃墟だ。水の涸れた都市など……。だがその指摘は正しい。目先の勝利、略奪の為だけに、今後砂漠に攻め込む者たちの中には、そういった手段を選ぶ者も必ずいる。それほどに略奪の誘惑は大きい」
「一時の快楽に、なんの意味が」
「そうは言うが、それは姫が月の国の人間だからだ。今日明日、生きるか死ぬかの生活を知らないせいだ。明日死ぬかもしれない者たちに、百年後の安寧などなんの意味もない。親子の繋がりとて、希薄なのだ」
エルドゥスの唇に、皮肉げな笑みが浮かんだように見えた。
(親子――)
草原を裏切る心づもりらしいエルドゥスは、兄弟と争う覚悟はあるだろう。親とは? 親とも?
これほど草原の民であることに誇りを感じているらしい彼が、同胞に背くというのは、いかなる理由があるのだろう。
皇帝との絆だけがその理由というのは、考えにくいのだが。
(信用しにくい人だ。いざとなったら、仲間とて裏切るんじゃないだろうか)
この人には心を許してはならないと思う反面、奇妙な頼もしさを感じるのも嘘ではない。
――知恵なき味方より、知恵ある敵。
もし彼が敵になったとしても、地下水路を壊さない攻め方をしてくれるのではないだろうか。
一瞬考えてしまってから、すぐに打ち消す。
決して、敵に回さないようにしなければならない。その為には、心変わりがないか、よく見ていなければ。この先、彼との行動も増えるはずなのだ。信用し、信用されるように努めねば。
セリスとエルドゥスの後ろを、アーネストとナサニエルが並んで進んでいた。
どうしても表情が曇りがちなアーネストを横目で確認し、ナサニエルは声をかけぬまま前を向く。
一番最後を行くロスタムは、鷲を肩に乗せ、前方の四人を目を細めて眺めていた。
暁の明星輝く空の方角から、冷たい風が砂を巻き上げながら吹き付けてきた。
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