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イグニスにとって、主は生涯ただひとり。
出会った頃は常に自信がなさそうで、何をするにもどこへ行くにも惑っていたひ弱な少女。
(いつ見限ろうか。そればかり考えていた……)
放っておけばすぐにも死ぬだろう。興味も抱かぬまま、職務でそばにいた。
それが、己の無力さを呪い、知らぬ間に牙を研いでいた。イグニスが気づいたときには、少女は自分を阻む者たちに無謀にも立ち向かう算段をしていた。
――そんな穴だらけの作戦でどうする。死ぬぞ。みすみすあんな奴らに、殺されてやるつもりか。皇帝の血筋の姫でありながら。
そのとき、自分が相手の命を惜しんでいることに、初めて気づいた。
少女はそれまでの弱々しさをかなぐり捨て、イグニスを見据えて不敵に笑ったのだ。
――たとえ石が黄金を砕こうとも、石の価値が上がるわけでもない。それを知らぬ者たちに、殺されてなどやるものか。
この黄金を、砕かせてはならない。決して。
胸の内に芽生えた意志はいつか、少女がこの動乱の時代、古き帝国の皇帝になることすら夢に見た。その実現のために、共に歩む決意はすでに固まっていた。
幾つもの苦難と流血の末に、少女は皇帝となった。
(危険はいつも。あの国では、王座こそが死地。長く生きられないだろうと、知りながら。それでも私はあの方を、アテナを皇帝にするのが歴史の要請だとすら思っていた。だが……)
いまイグニスの目の前には、滅びの国から来た青年がいる。
その剣の腕以外に何も持たぬはずの彼は、しかし天より降り注ぐ光をその身に受け、時代を吹き抜ける風にすら祝福されているかのようである。
白金色の髪。金色の瞳。
ひとを魅了してやまない、生命力に溢れた笑み。
見つめていられずに、イグニスは目を細めた。
「人間はね、太陽を直視できないように出来ているんですよ……。そんなことをしたら、目が潰れてしまうから」
「決して目を潰さぬ太陽が、この地上にある。いま、あなたの目の前に」
揺るぎない、ラムウィンドスの微笑。品があり、優しい獅子を思わせる。
(アスランディアとイクストゥーラの民は手先が器用で彫刻の技術にも優れている。彼らの住まう宮殿や神を祀る神殿には、草花や動物が装飾を凝らされて彫られるが、猛々しい獅子さえも優美な姿をもって描き出されるとか。いつか、そんな話を聞いたな)
溢れ出す記憶をたどりながら、アテナ、とイグニスは心の中で主の名を呼んだ。
忘れないように、ただひとつの光を。遠き砂漠の地にあって、決して見失わないように。
(私はあの少女の輝きに賭けたんだ。この時代に生まれ落ちた自分自身の命を。才のすべてを。それは、アテナこそが王の資質と信じたから――)
その思いを、目の前の太陽は色褪せさせかねない。
初めて会ったときにはこれほどとは思わなかった。それが、いつの間にかもはや誰も間違えようないほどに、王者の風格をその身に宿している。
その理由は、知れている。
「『覇王を導く姫君』に選ばれし者だからか、その自信は」
ぶっきらぼうに尋ねたイグニス。
ラムウィンドスはやわらかな表情を崩さぬまま、言葉で答えることはない。
それが面白くなくて、イグニスは腹いせのように言い捨てた。
「我が君は女の身でね、たとえ姫君と面と向かう機会をもっても、覇王として選ばれることはかなわないのだ。さて私は、悔しがれば良いのか悲しがれば良いのか……」
「俺とて、姫の心を縛ることはできはしない。あなたの主と姫が会ったとき、何が起きるかは予測などできないが」
イグニスの投げやりな態度をとがめることなく、ラムウィンドスは生真面目な口調で言う。
それを見つめて、イグニスは自分の気持ちが戦う前から負けていたことに気づき、奥歯を噛みしめる。すぐに、にやりと相好を崩した。
「あっそ。なるほどなるほど。総司令官殿がこの先姫君にふられてしまう線もあると。そして我が君にもまだ、勝機があるわけか。ありがと。そういう柔軟な思考は大好きだよ」
言うなり、大げさに両腕を開いて「友よ!!」と声を張り上げてラムウィンドスの体を抱きしめる。
逃げたり、拒んだりといった反応はなかった。ただ立ち尽くし、手荒な抱擁を受け止めながら、近づいてきたイグニスの耳元に、ラムウィンドスはそっと囁いた。
「息抜きにはなりましたか。この後は三日三晩でも働けますね?」
「鬼か」
「なんとでも。黒鷲はあなたに託します」
「ふざけんなっての。私にはもう心に決めた主が」
引き締まった両腕をつかんで、真正面から向き合う。わずかに目線の高いラムウィンドスは、まなざしに柔らかさを残したまま、告げた。
「あなたの機知によってこの地はすでにずいぶん救われています。そしてこの先も、あなたなら困難を切り抜ける術を考え出せるでしょう。そうして、一見無関係に見える者まで救うことで、あなたはあなたの大切な主を守るんです」
「言われなくてもそのつもりだ。せいぜい奴隷働きをして報いてもらうさ、黒鷲には」
手を離す。そのまま立ち去ろうとした。
そのイグニスの腕を、ラムウィンドスが無言で掴んだ。
まだ何か、と目で尋ねたイグニスを見つめ、鋭い声で囁いた。
エスファンドを使え、と。
常より輝きを増した金の瞳に、真摯な光を宿して重ねて言う。
――俺がいない間、この地の太陽を受け持つのはエスファンドだ。あなたが思っている以上にあれは危険で使える人間だ。困る前に使え。絶対に逃がすな。
その言葉の意味を、イグニスはやがて戦火の中で知ることになる。
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