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「待ってくださいよ、ご主人さま!」
雑踏に紛れていく背に向かって、ミルザは声を張り上げた。
自分の声を自分で耳にして、奴隷のような物言いである、とミルザは内心情けなく思う。
しかし、彼のひとを本当の名で呼ぶことはできない。もちろん、役職で呼ぶこともできない。これはお忍びの旅。であればこそ、主従関係だけを残した呼びかけが、自分に許された唯一の手段。
ミルザの主人であるその青年は、美しい白金色の髪も顔の半分も布で覆っている。それでもすらりと伸びた背筋や武人らしく引き締まった体つき、それでいて優美さを漂わせた所作に、すれ違った相手の目をひく存在感があった。
特別な、来たる時代に選ばれた王者の風格。
(エスファンド導師はあの方を「神話の時代の最後の王」なんて言っていたけれど……。最後の王は、この広い世界の夜明けに立っている。次の時代はそこから始まる)
戦乱の時代、避けられぬ戦い。覇権を巡り、急成長を遂げた草原はいまや大いなる脅威。騎馬の足音が轟き、次々と踏み潰されて滅ばされてゆく人々。誰もが、希望の光たる英雄の到来を待ち望んでいる。
彼のひとは、怨嗟に染まる砂漠と滅びゆく国々の先頭に立ち、多くの戦士を率いてやがて覇者となる。
おいそれと呼べぬその名は、太陽王の血脈、ラムウィンドスという。
近頃アルファティーマとの衝突で深手を負った隊商都市の正規軍において、総司令官の座にあったラムウィンドスは、年若いミルザの憧憬の対象であった。
大規模作戦に先立ち、少数で動く旅に同行を許されたときは、この上ない喜びに満たされた。これからずっと、あの人のそばにいられるのだと。
そばにいたいのだ。
だが、ほんの少しでも目を離すとひょいひょいとどこかへと行ってしまう。まるで風のように。しかも、極めつけに自由な風。
「ご主人さま……!」
せめて向こうから見失われてなるものかと、呼びかけながら人の間をくぐりぬけ走ると、野菜を並べた店の軒先で店主と話している姿があった。
一般人には考えも及ばぬ地位にあるというのに、居丈高に振る舞うこともなく、市井の民と気安く話す姿にミルザは今でもひそかに驚かされる。
「なかなか見ない品揃えだ。この辺の流通はしっかりと機能しているようだな」
「そりゃあ、うちの自警団は優秀だよ。草原の奴らもおいそれと手を出せない。小競り合いは今まで何度もあったが、その度に頭目が追い払っている。悪評高いアルファティーマが手も足も出せず逃げ帰るんだ、ありゃあ良いお笑い草だね」
黒い布で頭髪から顔を覆った店主が、シャシャシャと喉の奥で笑い声を上げた。表情こそ隠れて見えないが、布の下には満面の笑みが広がっていることだろう。
「頭目殿か。どこへ行けば会えるだろうか。ぜひ話してみたい」
「いやいや旅人さん、馬鹿を言っちゃいけない。誰彼と会うほど暇なおひとじゃないよ、あの方は。よほどの口利きや紹介状のひとつでもなきゃ」
「それはそうだろうな。わかった、ありがとう。二、三日この街にとどまって骨を休めてから、出立する予定だ。その前にまたこの店に寄らせてもらう」
さっと硬貨を渡して赤い果実のようなものを買い求め、再び歩き出す。
見守っていたミルザは、この機を逃さぬよう、横に走り込んでからその手の中をのぞきこんだ。
「何を買ったんですか?」
「なんだろう。食べてみるか?」
こだわりのない様子で、手渡しされる。受け取り、ためつすがめつしながら「赤いですね」と見たままのことを口にしてしまった。そんな自分にほのかに絶望したが、ラムウィンドスは特に失望も見せずに「赤いな」と答えた。
彼との会話は万事その調子で、これまで上司といえば気性の荒い大男ばかり、隙を見せようものなら小突き回される軍部育ちのミルザは、いつも少々拍子抜けしてしまう。扱う上で、警戒のしどころがわからない。もしかして個人的に仲良くなれるのでは、と錯覚しそうになる。そんなわけないのに。
肩を並べて、辺りを見ながら進む。
やがて、ラムウィンドスが「腹減ってるよな」と声をかけてきた。
「はい、それはもう」
「そっか。じゃあせっかくだから名物料理でも食べていこう。土地を知るのは大切だ」
さらりと気負いなく言われて、ミルザはぱっと顔を輝かせた。
「名物料理ですか? 楽しみです。ここ、食料も豊富そうだからきっとすごく美味しいものが」
「火鍋」
夢いっぱい語りかけたミルザに、ラムウィンドスが実にさりげなく答えた。
「火鍋?」
「すごいぞ。香辛料をたくさん使った激辛火鍋というものがあるらしい。ぜひとも食べておかねば」
「激辛? 激辛ってなんですか?」
「甘くないということだな」
わかっているのか、いないのか。不思議な説明であったが、ミルザはへへっと小さく笑って言った。
「楽しみですね!!」
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