【第七部】

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 遠くで、馬の(いなな)き。  聞こえた瞬間から耳を澄ませて、状況を探ってしまうのはすでにセリスにとって習い性になっている。動いている人数の規模、どんな会話をしているのか。わずかでも拾えないか、と。  それまで物見遊山がてら長閑な世間話をしていたエルドゥスもまた、口をつぐんで周辺を窺っていた。  目を伏せつつ、セリスはエルドゥスの横顔を見上げる。 (いつもながら切り替えが早い。この人、本当に気を抜いている瞬間がない。常にいくつもの道筋を頭の中に描いているように見える……)  自分と同じ景色を視界に収めていても、考えている量がおそらくまったく違う。たとえば目の前に一本の道があり、両脇に建物があれば、その間の細い道まで見えている。その場で突然敵が現れたら、どの道を通ってどこへ逃げて、どこで反転して返り討つか……初めて訪れた街でさえ、そういったことを常時考え続けているようだ。  彼の全身を覆う、緊張感。生き延びる中で身につけてきたもの。  旅に出るにあたり、男性の姿をとってマリクと名乗っているセリスはいつも、彼のように自分もなれるだろうかと自問自答してしまう。  答えは簡単。なれなければ死ぬだけ。誰かが自分を守ってくれるだろう、と無邪気に考えられる時代はとうの昔に終わりを告げている。  そのとき、すっとセリスの横に立つ人影があった。 「この街の自警団。周辺の警備に出ていた部隊が、ちょうどいまさっき戻った。アルファティーマと小競り合いをして蹴散らしてきたとか。互角に渡り合えるだけでもすごいのに、常勝らしい。頭目の武力が突出していて、統率力もあるようだ。噂で聞く限りは」  ごく平坦な口調で報告をしてくるのは、先んじてこの街に到着していたロスタム。離れて行動する利はわかるものの、いざこうして無事な姿を確認すると、セリスとしてもほっとする。 「機会があったらお会いしてみたいですが、難しいでしょうね。こちらの立場を明かすわけにもいきませんし」  小声で返事をすると、さらに別の声が降ってきた。 「敵の敵が味方とは限らんからね。誰にどんな野心があるかもわからん。利用するつもりでされたら目もあてられんわ」  聞き慣れたアーネストの声。そうですね、と慎重に相槌を打ってからセリスはさりげなく辺りを見回した。  自警団が戻った情報が伝わっているのか、ざわめきが大きくなっている。迎えに出るためか、道の先へと走っていく子どもの後ろ姿があり、今まさにセリスの横を通り過ぎていく若い女もいた。輝く瞳。靡くスカートの動きを追って、セリスは目を細める。 (会いたいひとが帰ってきてたのかな……)  ほんの少しの時間でさえ、一度別れてしまえば、再び会えるかわからない。もしかしたら生涯の別れになるかもしれない。その危険が日常だからこそ、会えるときの喜びは何ものにも代えがたい。  自分もあんな風に会いたい相手の元へ駆けていけたら、と想像しかけて、セリスは頭を振る。今はそんなこと、考えている場合ではない。  アルファティーマに赴き、サイードと会って真意を探る。叶うことなら味方についてほしいと説得する。到底なし得ないと思えるその望みのために、自ら危険な旅へと身を投じたのだ。揺らいでいる場合ではない。 「今日は、あそこの宿です。ロスタムが先に部屋をおさえてくれているそうで」  背伸びして道の先をうかがっていたナサニエルが、やわらかい口調で話しかけてくる。  すかさず、ロスタムが答えた。 「面白い料理が食べられるらしい。熱くて辛いの」 「辛い?」  首を傾げたセリスの手を、エルドゥスが掴む。「行こう!」明るく声を上げて、引きずるように走り出した。 「ちょっと……! 強引だな!」  抗議しても、聞く様子もない。足をもつれさせながらも転ばず体勢を立て直して、セリスはなんとかついていこうとする。すぐに、どん、と肩に衝撃。エルドゥスがぱっと手を離したので、よろめきながらも足を踏みしめ、ぶつかった相手に目を向ける。  見上げるほどの偉丈夫。 「元気な小僧だな」  さわやかな笑みを浮かべて見下ろしてきたのは、ついぞ見かけぬ濃い青の瞳だった。入れ墨に彩られた茶褐色の肌。獣の猛々しさを思わせる、精悍な容貌。 「すみません」  目が合った瞬間、セリスが謝ると、青い瞳が面白そうに瞬いた。明らかな興味がそこに浮かび上がる。視線を外す様子もなく、一歩踏み出してきた。直感的に、まずい、とセリスは体を強張らせる。自分の何かが、相手の注意をひいてしまった。 「美しい声だ。もう少し何か話してみてくれないか」  促されて、なおさら口をつぐむ。 (声で、女だと気づかれたのかもしれない。女として興味を持たれるのは危ない)  答える様子のないセリスを前に、男は目元に笑みを滲ませたまま何か言おうとした。その男に向かって、横に立っていた小柄な少年が「頭目」と声をかけた。  セリスは素早く相手の身なりを見て取る。砂埃にまみれた服装、腰に帯びた曲刀。何より、これまでセリスが出会ったひとにも通じる、武人としての気迫。 (自警団の頭目? 噂の相手なら、話す機会なんてそうそうない。どうする……!?)  悩むセリスをさておき、相手は腕を伸ばしてきてセリスの手首を掴んだ。あっという間もなく引き寄せられて肩を抱かれる。 「ちょうど良い、これから小宴だ。付き合え」 (捕まっ……、誰か止め……っ)  驚きながら振り返ったセリスの目にうつったのは、にっこりと笑っているエルドゥスの姿のみ。  口元は布で覆われているが、見えずとも何を言っているのかはわかった。  さしずめ「いってらっしゃい、自分でどうにかしろ」と。 (エルドゥス王子……! 曲者め……!)   まなざしに怒りを込めるも、すぐにその姿は男の腕に遮られて見えなくなった。
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