【第七部】

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 ぐつぐつと煮え立つ、真っ赤なスープ。  火にかけられた鉄鍋を前に、ミルザは「あわわわわ」と怯んで怯えていた。その横で、ラムウィンドスは一切表情を変えていない。それどころか、心なしか楽しそうにも見える。  日干しレンガの建物の中、旅人に食べ物を供する食事処の調理場をのぞいて、ラムウィンドスは今にも「それを」と買い求めようとしていた。 「ご主人さま。本当にあれを口にされるんですか? およそ食べ物の色としては考えられない色です。匂いも摩訶不思議」  布を口元に巻きつけているというのに、深く息を吸い込むと鼻や肺を刺されるような刺激がある。ミルザの経験上、そういった人体に対して攻撃的な様相の食べ物はだいたい、危険だ。  食べてほしくない。その思いから苦言を呈し続けているのに、ラムウィンドスはつんとそっぽを向く。 「赤い食べ物などいくらでもあるだろう。珍しい色でもない。人間の体にもある」 「血ですか。煮えたぎった血のようなスープなんて、本当に飲めますか。無事ですむと思っているんですか」  ミルザがラムウィンドスのそばに極力身を寄せ、「悪魔の食べ物です」と耳元で主張すれば、ラムウィンドスはちらりと視線を流して言った。 「それは食べるとどうなるんだ。悪魔の力を得ることができるのか? 興味深い」 「怖いもの知らず……。普段から悪魔並に強いんですから、欲張らなくても」 「欲ではない。好奇心だ」 「食べ物に向けるものではないですね。自然界には毒を持つ植物や生き物が無数にいます。尊き御身を思えば、安全確実なものだけを口にされるべきでしょう。いまはべつに、食べ物に困っているわけでもありません」  これ以上なく、正論を説いたつもりだった。 (思い直してくださいよ。あなたは好奇心で身を滅ぼして良い立場のひとではないのですから)  念じながらその目元を見つめる。切れ長で整っており、感情が乏しく見ようによっては冷酷な印象だ。だが、ミルザは彼がその見た目通りのひとではないと知っている。人間味があり、面倒見がよく、高貴な身の上でしかも常日頃非情な判断力を要求される軍人であると考えれば、驚異的なほどに優しい。下の者の意見も、有用であれば取り入れる柔軟さもある。そう信じている。  少しの間、ラムウィンドスはじっと固まっていた。やがて言った。 「たしかにあれが毒であればここで生涯を終えることになる……。毒でなければ食べなかったことによる後悔を」 「後悔なんていくらしても死にませんから。心に有害でも体にはいたって無害です。死んでも死にきれない未練を抱いてこの先、生きて行けばいいじゃないですか。長生きしますよ」 (あとひと押し!)  手応えを感じて、ミルザはさらにごりごりと押し込むように説得をする。ラムウィンドスの横顔がどことなく寂しげに見えるが、知ったことではない。安全第一、命大事に。 「あの鍋は、羊肉と芋と赤色の野菜に、南の地から運ばれてきた胡椒をはじめとした香辛料を煮ていると……。香辛料を使うと食べ物が腐りにくくなるというのはよく知られていることだから、あれは安全か安全じゃないかでいえば安全」 「ご主人さま。激辛への憧れはわかりました。ミルザの胸にしかと留めておきます。鍋とは今晩夢でお会いになると良いでしょう。夢の中でならいくら召し上がって頂いても」  ミルザを見るラムウィンドスが、悲しげに目を瞬く。それを見たら「一口なら」と恩情をかけたくなったが、ミルザは戦場で深手を負った親友を見捨てるがごとく、非情さを発揮して首を振った。  ラムウィンドスは額に手をあてて瞑目してしまう。  辺りには、火鍋の強烈な匂いの他に、竈で焼いた香ばしいパンの匂いも漂っている。  ミルザは落ち込んだラムウィンドスを差し置いて「あれにしておきましょう」と言った。  その二人の横を、風が通り過ぎた。 「あれ絶対美味しいと思う。間違いない。俺はあれを食う!」  響いたのは若々しい声。  元気だな、と思うミルザをよそに、ラムウィンドスが音もなく動いてその人物の首根っこを押さえた。 「な……っ!?」  弾かれたように反応し、相手はラムウィンドスの手から逃れて振り返る。  黒目がちな目を見開いて、ぽかんとした様子で呟いた。 「総司令官殿か……? また変なところで」  言い終えるなり、不敵に微笑んだ。  あまり良い印象の笑みではない。ミルザは、相手が明らかにラムウィンドスを知っていたこともあり、瞬間的に警戒を強める。  一方のラムウィンドスは動じた様子もなく、ただ面白くもなさそうに言った。 「食うな。あれは危険な香りがする」 「いやいや……、ほら、俺とあなたはいま別働隊なわけで、指図をきくいわれはないんですよ」 「聞け。お前に何かあったら同行者の身にも危険が及ぶだろう」 (あーっ! さっきまでひとの言う事きかないで、火鍋に未練タラタラだったくせに、ここでさも当然のように相手を諭したーっ!)  それは聞き捨てならない、と口元を覆った布の下で開いた口がふさがらなくなるミルザをよそに。  ラムウィンドスに詰められている相手は、にこにこと笑って答えた。 「同行者、はぐれちゃったんですよね。だから俺いま、身軽なんです」  足癖の悪いラムウィンドスが、相手を蹴り上げる動作がほぼ同時だった。
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