【第七部】

9/12
前へ
/266ページ
次へ
 抵抗したいならしても良い、と目の前の男バルディヤは言った。  セリスは、わずかな動きからでも何かを掴もうと、慎重に様子をうかがう。  目つき。息遣い。衣服の下の、しなやかな筋肉の動き。風にのる体臭。  強く大きな獣と対峙している感覚。  隙を見せたら、柔らかな皮膚に牙を突き立てられる。喉笛を噛みちぎられ、砂漠に打ち捨てられる。  干からびて砂嵐に埋もれていく自分の死体を幻視しながら、その向こうに立つ現実の男の姿を目を凝らしてじっと見つめた。 (このひとがどのくらい強いのかは、わからない。だけど、はっきりと力の差を知っているアルザイ様やラムウィンドスを前にしたら、私は戦おうとは思わないはず。もし彼らが敵として現れたら、私に出来るのは時間稼ぎくらいで)  ぞくりと、背筋が震えた。  自分自身の死を思ったときには感じなかった、強い恐怖。  アルザイが、ラムウィンドスが敵となる。およそ、それより悪いことなんてない、最悪の状況だ。  それに比べたら、今は幾分マシなのだと思えた。最悪ではないのなら、手の打ちようがある。  ゆっくりと息を吐き出した。  演じろ。自分に言い聞かせる。演じろ。すぐに意思を奪い口を塞ぐのは惜しいと、相手が思うように。  不安も恐怖ない、不敵な何者かになりきって見せろ。  そのときセリスの脳裏に浮かんだのは、常日頃そういった振る舞いをしている、飄々とした男。  彼のように。  口元を覆う布の下で、唇の動きだけでセリスは彼の名を呼んだ。ラムウィンドス。  そのまま、布を剥ぎ取る。頭を覆っていた布も。  薄暗い日干し煉瓦の建物の中で、埃にまみれても輝きを失わない、銀の髪があらわになる。 「やはり月の王家(イクストゥーラ)か……、それで?」  一瞬、バルディヤが身を乗り出した。銀の髪は、それだけ珍しい。月の王家の色と聞いてはいても、実物を目にしたことがある者は限られるはず。本物か、見定めようとしたのだろう。  セリスは強気の浮かぶ表情のまま、笑った。 「それは私が聞きたい。もし私が月の王族だとして、あなたはどうするつもりですか? 私ひとり手にしたところで、まさか本当に天下がその手に収まるとは思わないでしょう?」 「さて。お前は、妖術の類いでも、使えるのか……?」  半信半疑の様子で聞かれて、セリスは笑い声を弾けさせた。 「あっははははは、面白い冗談ですね。私に何かできると? この世の者ならざる力をもって、雨雲でも呼べば良いですか?」  なぜこの状況でセリスが笑い出したのか、バルディヤは測りかねている。ほんのわずかに、緊張したのが空気で伝わる。 「それが出来るというのなら。出来るのに、なぜ今やらないのかという話だな」  ため息混じりに吐き出された低い声は、思いがけずセリスの胸を打った。セリスは、不意に目の前の男の輪郭が見えた気がした。  (水を求める思いは、砂漠に生まれた者にとって、強い。「できるのに、なぜ今やらないのか」妖術使いがいるのなら、そう願いたいというのはこのひとの本心……)  欲望の向く先。本当に願っているもの。  それは、目先の飢えを満たす栄誉ではなく、高く遠い世界への果てなき夢。 「雨雲を呼ぶことはできませんが……。あなたの求めるもののために、私たちは手を結べると思います」  その一言は、バルディヤのカンに触ったようだった。 「ハッ、面白ぇこと言うなぁ。いいか、今の世で『手を組もう』と安易に言う奴は結局、自分が相手に与えるものではなく、そのことで得られるものしか見ていない。平たく言えば、一方的な利用価値にしか興味がない。どんな相手でも、だ。ゆえに、手を組むことは、ありえないッ」  バルディヤの太い腕が鋭く空気を切り、セリスに迫る。  会話終了と同時の不意打ちであったが、正面からだっただけに、辛くもセリスはその一撃をかわした。 (速いし、重い……! いまのは、かわせたのではなく、初めから狙っていなかった?)  触れただけで、骨まで粉砕されそうな威力。さすがに、初手はセリスの程度を見ようとしただけのようだった。つまり、動けるのか口先だけなのか。  守られる者なのか、自ら戦う者なのか。 「へぇ……、悪くねぇな。それなりに鍛えてそうだ。弱々しいなりの割には」  余裕を帯びた低い声。言い返したいが、セリスの喉は干上がっていて、満足な言葉が出てくることはなかった。  頭の中は、次は避けられるかどうか。どこに来るのか。恐怖でいっぱいになりかけていた。 (だめだ。冷静になれ。私にできるのは? 時間稼ぎだ。待っていればアーネストが、必ず……)  願いをかけようとして、気づく。アーネストは、来ない。いまはナサニエルの護衛をしているはずだ。エルドゥスが役目を放棄した以上、代わってセリスを探す可能性があるのは、ロスタムだけ。  ロスタムであれば、相手が誰であれ簡単には負けないとは思うものの、一抹の不安がある。もっと強いひとがこの世にはたくさんいることを、知っているから。  じりじりと、迫る危険に神経が炙られるような時間。  バルディヤは愛想よく笑って言った。 「逃げねぇのか? ただ座して食われるのを待つだけか、月のお姫様は」 「食われる気など」 「口だけだな。足が震えているよっ」  来ると、セリスにもわかった。逃げようとした。だが、バルディヤの狙いはそんな生易しいものではなかった。  たしかに、動きを見極めて避ける動作をしたはずなのに、ほぼ無駄のない速さでそのセリスの影を縫うように追いかけてきて、腹に蹴りの一撃を入れてきた。 「……んうっ……!!」  手加減のない痛みに、セリスは悶絶して土床に転がる。  すぐさまその手前に片膝をついたバルディヤは、無造作にセリスの前髪を掴んで苦悶に歪む顔を見つめた。間近な位置で見つめ合い、セリスにできるのは、とっさに目に力を込めて睨み返すことだけ。クッ、とおかしそうにバルディヤが喉を鳴らした。 「気高いねえ。根性だけはありそうだ。しかし弱い。何を提案しようとしていたかは知らねえが、どうせ素直に腹の中を言う気もないだろう。時間をかけてその体に聞くとするか」  そして、セリスの体をやすやすと抱えあげると、荷物のように肩に担ぎ上げた。 (力ではかなわない。いまは痛みが収まるのを待って、そこから……)  下手に抵抗して怪我を増やさぬよう、セリスは煮え立つ心をなんとか抑え込む。  バルディヤの足が日干し煉瓦の建物を出たとき、さっと光を感じて目を閉じた。  遠くの騒ぎ声が意識に上ってきたのは、そのときのことだった。
/266ページ

最初のコメントを投稿しよう!

80人が本棚に入れています
本棚に追加