【第七部】

10/12
前へ
/266ページ
次へ
 ザッザッと地を踏みしめる足音。  バルディヤに担ぎ上げて運ばれながら、セリスは日差しに負けじと一度閉じた目を開ける。風の巻き上がる砂埃がしみて、顔をしかめた。銀の髪の毛は隠せていない。  痛みに意識が朦朧とする中、記憶の底からイクストゥーラの夜の森で出会った少年の声が響く。はっきりとは思い出せないが、遠い日に彼から「帰るように」と厳しく注意をされたことがあった。  ――姫がひとりで出歩いて、もし怪我をしたり、悪い人間にさらわれでもしたら、皆が陛下に怒られることになる。姫はそれでもいいと思うか  ――……わたしが悪いのに、みんなが怒られるの?  ――そういうことになる。それが申し訳ないと思うなら、今すぐ帰るように  アスランディア、とセリスは声に出さずに名を呼んだ。 (子どものときの私は、あなたに「帰れ」と言われて、帰りました。外の世界は危険に満ちていたから。あのまま、どこへも行かずに離宮にいたら、今頃私は全然違う道を歩んでいたことでしょう)  遠くで、何度めかの大きな歓声がわあっと上がる。 「騒がしいな。喧嘩か?」  バルディヤの唸るような独り言が、体に直に響いた。  蹴られた痛みに耐えて脂汗をにじませながら、セリスは息を吐き出す。そして、耳を澄ました。  囃し立てるような、弾んだ声。響く怒号。女性たちの高い歓声には悲劇めいた色はなく、むしろ沸き立つような明るさがある。 (見世物……? なに?)  痛みと振動で、うまく集中できない。なんとか聞き取ろうと息を止めたその一瞬。  間隙をついて、言葉が耳に飛び込んできた。 「アスランディア!!」  わああっとひときわ大きく沸き立つ声に、空気がびりびりと震える。  どくん、と心臓が大きく脈打った。  息を止めたまま、呼吸が戻らない。  全身が強張り、体中がすべて耳になったかのようにもう一度、その音を追い求める。  民を失い、祀られることなく忘れ去られていく定めの神の名。  地上から消えた王国。途絶えた王家。  ほんの数年前までは、そう思われていたはずだ。  彼が現れるまでは。 「聞こえ、ない」 「あぁ?」  喉からこぼれ落ちたか細い呟き。  バルディヤが怪訝そうに反応するも、セリスはそれどころではなかった。  気が急く。心臓が騒がしく痛いほどに鳴り始めて、抑えきれない。 「放してください……っ、行かせてください!」  目が眩む日差し、砂をはらんだ風、関節の軋む痛みと自分を抱え上げた腕。肉体があるからこその不自由に、叫び声が出た。 「あのひと(アスランディア)の元へ、行かなければ!」  束縛に屈している場合ではないのだと、細い手足をバタつかせる。  抵抗など、普段ならものともしないだろうバルディヤであったが「頭目!」といくつかの声が上がったときに、ほんのわずかに力が弱まった。セリスは、その隙を逃さなかった。  バルディヤの体をやみくもに蹴り上げ、後先も考えずに暴れる。つま先が、曲刀の硬さをとらえる。そのままぐっと力を込めると、危機を察したバルディヤはセリスを地面に叩きつけるように投げ出した。  防御姿勢などろくに取れなかった。それでも、セリスはすぐに片膝をついて、体勢を立て直す。蹴りがくることを予想して、顔の前で腕を交差させた。  予期した一撃は、訪れなかった。  時間差で、油断したところを蹴られるかと、警戒しながら腕をずらして翠の瞳でにらみ上げたとき、不敵な笑みを浮かべたまなざしとぶつかった。 「惹かれ合うのか。月と太陽は」  からかっているようなその声には、皮肉な響きも紛れ込んでいる。まるで、手を伸ばしても届かぬ星々の戯れ、月が灼熱の太陽に搦め取られることに、嫉妬し胸を焦がしているかのようだ。  砂漠に生きる者たちは、安らぎの夜を照らす月を求める気持ちが、殊に強い。もはや理屈以上の感情。  奪われたくない、行かせたくない、という暗い思いの発露に、セリスはつばを飲み込む。足止めされてなるものかと、口を開く。 「月は」  そこで、言葉を止めた。  歓声の聞こえ方が、変だ。近づいてくる。瞬く間に。  心の準備をする暇もなく、走り込んでくる長身の青年の姿が見えた。  この炎天下で、髪も顔も覆うことなく、すべてをさらけ出している。  その髪の色。瞳の輝き。気高く整った面差しに、超然とした無表情。 (こ、こんなの……、誰が見ても太陽(アスランディア)……!)  たしかに目が合った感覚があったのに、まったく表情が変わらないのがいかにも彼らしい。  別れ際のあのとき、心が通じ合ったはずなのに、とセリスは唇を噛みしめる。  思いを交わした夜には、あんなに求めてくれていたのに、と悔しく思い出す。  ただ事務的にセリスの位置を確認し、バルディヤを敵と認識して、攻撃体勢に入る。その判断力、無駄の無さ。 「アスランディア?」  不思議そうなバルディヤの呟きが耳をかすめたそのとき、セリスはこれ以上余計な怪我人が出てはならない、という一心で思わず叫んだ。 「足癖が、悪いです!」  その警告で間一髪バルディヤは、駆け込んできた青年の飛び蹴りをかわした。  しん、と辺りが静まり返る中、かわされた青年がセリスを振り返り、見下ろしてくる。 「怪我は」 「け、怪我というか、打撲は少し」 「あの男?」 「はい」  嘘やごまかす余地もなく、淡々と繰り出される質問に正直に返事をしてしまう。  アスランディアの化身にしか見えない青年は、ふん、と息を吐きだして目を細め、セリスに重ねて尋ねてきた。 「なぜ、いま俺を止めましたか。場合によっては、あなたでも許しません」 「許さないって。ええと、ラムウィンドス……?」  圧が強すぎて、ろくに言い返せないセリスに対し、ラムウィンドスは毅然とした口調で断言した。 「そのままの意味です。あなたを傷つけた男を殺すのを邪魔されたくありません。次はないですよ」  ひえ、と息を呑んでセリスは固まる。脅す相手を間違えていないだろうか。  そのセリスを見つめ、ラムウィンドスはいっそ穏やかと思えるほどの声音で告げてきた。 「後で色々と聞かせて頂きます。場合によってはお仕置きですね。全員まとめてしめる」  全員。セリス以外の者もしっかりターゲットに入っている。もはや言い返せぬセリスから視線を外し、バルディヤと向き直りながら、ラムウィンドスは低い声で付け足した。 「いまはもう、あなたに帰れとは言いませんよ。あなたは進むしかない。俺がここを通りすがったのも何かの縁です、少しだけ手助けを。この手が届く限り、目障りなものは片付けておきましょう」
/266ページ

最初のコメントを投稿しよう!

80人が本棚に入れています
本棚に追加