世界で一番安全な二人

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「……っ、っ、あっはっははは、そうか。失敬、わかった。姫をお迎えに上がったんだが、これは無粋な真似をしてしまったらしいね。広間の方で待っているから、ゆっくりおいで。急がなくていい」  扉越しだというのに、はっきりと聞こえるのは明瞭な発音のせいだろうか。深みのある、穏やかな声。 「誰?」  茶色い木のドアが、まるでその人であるかのように見つめれば、向こうから答えが返る。 「ゼファードだ。名前は聞いたことがあるかな。君の兄だよ」 「お兄様……」  呟いた声に、複雑な思いが混じるのは止めようがなかった。  ゼファード。第一王子、二十三歳。  セリスとは違う意味で、予言に翻弄されている人だった。  もしセリスがいなければ、今頃王太子として立てられ、ゆくゆくは玉座を継いでいたはずの人だ。  けれど、成人してしばらくたつという今になっても、立太子式そのものが先送りにされている。  表向きは長子相続の原則はないので、セリスの成人を待つということになっているが、内情はもう少し複雑だ。  セリスが選んだ伴侶が世界を繁栄に導くとされているせいで、セリスの夫が国をおさめるやもしれぬと主張する派閥が王宮内にあり、苦しい立場を強いられているということだった。  一方で、ゼファードを支持する者はセリスの存在を快く思っていないとも聞く。  誰もが予言を信じるわけではない。  王宮で生まれ育ち生活しているゼファードに引きかえ、セリスは離宮にこもりっぱなし。実在すら怪しい存在なのだ。そんな名ばかりの姫のせいで、国がいつまでも後継者を得られないとすれば怒る者がいても当たり前だった。  ──まず、ゼファード様との関係を良好なものにすること。  王宮に向かうにあたり、離宮の女官長にしつこく言われたことであった。予言の姫とはいえ、なんの力も持たないセリスにとっては、王宮は決して過ごしやすい場所ではないだろう。  敵を増やさぬように務めることが肝要、と。 (えぇと……王宮に上がったら、父王の次にすみやかに挨拶をしなさい、だっけ)  その相手が、ドアの向こうにいる。自分から出向いてきてくれたという。  ここでセリスが追い払ったら、せっかくの歩み寄りが無駄になってしまう。  意を決して、セリスはドアに手をかけた。 「お待ちください。準備は出来ています。申し訳ありません。いま開けます」  躊躇などしていられない。一息にノブを引いて開き、そこにいるであろう人を見た。  視線を、想像よりもずっと上向けなければならなかった。  廊下の方が少しだけ暗くて、目を細めながら、セリスはそこに立っていた人を見上げた。  襟の高い象牙色(アイボリー)長衣(カフタン)に、装飾性のない皮の腰帯。直剣を佩いている。  白金色のやわらかそうな髪は、首の後ろで束ねているようだ。浅く焼けた細面に、無骨な眼鏡をかけており、レンズの向こうの瞳は明るい茶色。その瞳が、驚いたように軽く見開かれていた。 「は……はじめまして、セリスです。ごきげんうるわしゅう、ゼファード兄上」  咄嗟に、セリスはがばっと身体を半分に折って頭を下げた。 (平伏? どこまで頭を下げれば良い?)  相手の視線から逃れるのに必死になりながら、作法を思い出そうとするも、頭の中が真っ白だった。  男の人。  一目見ただけで、女の人と決定的に違うというのがわかった。  背の高さが? 肩の広さが? そんなはずない。それだけが理由なわけがない。  ただ、これまで自分が出会ってきた人間たちと何かが違った。それが何かを言い表すことはできなかった。 「姫、顔を……」  困ったような声が降ってくる。低く、掠れた声。やはり女の人とは違う。  怖い?  自問する。わからない。ただ、どうしていいかわからない。  そのままセリスが固まっていると、不意に風が動き、視界にあった革靴の先が消えた。 「ゼファード様、面白がってないでこちらへ」  先ほどの、少し掠れた声がそう言っている。  ゼファード様? と、セリスは顔を上げた。まさにそのとき、実に楽しげな笑い声が響き渡った。 「ごきげんうるわしゅう、わが妹姫! 悪かったね、私がいては姫が部屋から出てこられないかと思い、広間に向かおうとしていたところだった。ゼファードは私だ。はじめまして、会いたかったよ。……ああ、幸福の姫君。なるほど、世の男性を虜にする運命のもとに生まれた方とは知っていたが、これほどうつくしいとは」  聞いている方が明るい気持ちになりそうな、実に気さくで快活な話しぶりだった。  容姿もその印象を裏切らない。  イクストゥーラ王家の象徴ともいわれる豊かでうつくしい銀髪を、わざわざ瞳と同じ緑色に染め上げ、豪奢な房飾りのついた濃緑の長衣(カフタン)(あで)やかに着崩している。その妙な出で立ちは、彼の水際立った容姿とあいまって、奔放で華麗な雰囲気を作り出していた。  彼が髪を緑に染めるのは、王太子として認められていないことを自嘲してのこと、という噂があったのを、このときセリスはようやく思い出した。  しかしその色は彼に驚くほど似合っていて、そんな陰湿な印象は微塵もない。かえって目を奪われてしまった。  ゼファードは悪戯っぽい様子で片目をつむってみせ、立ち尽くしているセリスの前に歩み寄ると、跪いた。 「お……兄様?」 「姫、手を」  言われるがままに、かくかくと手を差し出せば、ゼファードは両手で包み込むようにうやうやしく受け止めた。その手のあたたかさと、思いもかけぬ力の強さにセリスが言葉を失っている間に、ゼファードの唇が手の甲にふれ、離れていった。  先ほどまでの軽薄な話しぶりとは打って変わった真剣な表情をしたゼファードが、鋭いまなざしをくれていた。  それも、瞬きの間の出来事。  すぐに立ち上がったゼファードは、白金色の髪の青年のもとに引き返す。ずいぶん背が高い人だと思ったが、ゼファードも並ぶとほとんど変わらない。その肩に腕をのせ、しなだれかかるようにして振り返った。 「こちらはラムウィンドス。私の親愛なる友人。今日からわが妹姫付きの従者となる」 「……なに?」
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