深い森の奥で

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「髪は、もう少しマメに切っていた。いまはいちいち切るのが面倒なので、あの頃より少し長い。あとは、眼鏡をかけていなかった」  朝は早く、いかにも規則正しい生活を重んじていそうなラムウィンドスが、面倒という言葉を使ったことに、セリスは少なからず驚いた。 「目は、その頃から悪くなり始めたんですか」 「そんなことはない。これがなくても、生活には支障がない」  これもまた、意外だった。ラムウィンドスの特徴と言えそうなほど馴染んでいるそれが、ただの飾りとは。激しい動きをすることも多いだろうに、どうしてそんな不自由を選んでいるのだろう。まさかお洒落のためとも思えない。  だとすると。 「……もしかして、鉛か何かで出来てるんですか。何かこう、顔周りの筋肉を鍛えているとか」  考えられることと言えば、それしかない。セリスはそうか、それが強さに至る秘密かととひどく感心してしまった。  すると、見間違いでなければ、ラムウィンドスは微かな笑みを浮かべた。 「こんなところ鍛えてどうするんだよ」  見間違いではない。笑っている。肩まで震わせている。そう気がついたのと、ラムウィンドスが口元に拳をあてて顔をそむけたのが同時だった。横顔が笑っている。喉から変な音がもれている。 「そ、そこまで笑わなくても! だって、なんであんなに強いのかといつも不思議に思ってたんですもの! 鉛ではないのですかっ?」  恥かしさを誤魔化すために、意地になって眼鏡のつるに指で触れる。届いたが、外すことはかなわなかった。笑いを収めたラムウィンドスに手首を掴まれてしまったためだ。 「だめだ。貸さない」  怒られるかと思ったが、声は穏やかだった。  そっけなく言われるなら対処のしようがあったが、眼鏡越しに向けられたまなざしがひどく優しげだったので、セリスは言葉を失った。掴まれた手首が、熱い。心得たような力加減は痛くはなかったが、反面、逃げようとしてもびくともしなかった。セリスは見ていられなくなり、横を向いた。ラムウィンドスは、セリスを掴んでいることを忘れてしまったのだろうか。そのままで、静かに言った。 「この眼鏡は十年前、バカ王子が月の息子をやめた日からしているんだ。人前では外さないようにしている。たとえ姫に命令されても、これは外せない」 「わたしは、そんな命令しません」 「そうだな。姫は悪くない主だ。意味のない命令など下さない。この先どこへ嫁ぐことになっても、きっと部下に慕われうまくやっていけるだろう」  冷たくはなかった。ただ、いつもの口調で明確な決定事項のように言われたことに、少なからぬ動揺があった。  予言によって選ばれた幸福の姫君。手を取った者を、世界を繁栄へと導く王とする──  離宮に隔離される原因になった大元の予言。それは実は、セリスという人間をとても無価値なものに押し込める側面を持っている。  まるでセリスそのものにはなんの意味もないのだというように。  だから、皆が当然のように伴侶を選ぶ日を待っている。  こうして、ことあるごとに決定事項のように言われてしまう。 「幸福の姫君の予言なんて、なければ良かったのに」 「何故」 「だってそのせいで、わたしは……」  何かを説明しようとすると、途端に言葉はうまく出てこなくなる。でも、それではダメだ。なんとか言わなければ。考えに考えて、セリスはようやく言った。 「誰かを、選ばなければなりません」  風が吹いて、梢が唸り声をあげた。幾枚もの葉がさらさらと重なりあう音が降ってくる。  まだらに落ちてきた葉の影は、ラムウィンドスの手と、セリスの手が繋がっているところをよぎった。ややして、掠れたような声でラムウィンドスが呟いた。 「選ばなければ良いだろう」
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