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わたしは何を知らない?
夜になったらベッドに入る。
眠ると朝が来る。
これはたしかなこと。疑いようがないこと。
ベッドに横たわり、天蓋を見上げて考え続ける。
たしかなこと、疑いようのないこと。
おなかがすくこと。食べると安心すること。美味しいものはうれしいこと。
「……違う。……違う。……違う」
いまの考えの流れは変だ。なにかが変だ。
うれしいって何?
美味しいって何?
安心って何?
「安心は、不安のないこと……。美味しいは……食べると……食べるって何。おなかがすくってなに」
違う。言葉の意味を追いかけても意味がない。それは感覚だから。感覚はあてにならない。セリスの身体はセリスだけのもの。その感覚が、他の人と同じということをたしかめることはできない。たしかなものなどない。何もない。
ただいくつもの言葉が、問いが、頭の中を駆け巡っている。
記憶。
記録。
情報。
手の中からすべり落ちていく。たしかなものなど何もない。
何も。
「わたしは何も知らない……。でもいったい、何を知らないの?」
図書室で見つけた本は、とても奇妙な本だった。
まだそんなに古い本ではなかった。離宮にあった本よりずっと新しい。
興味をひかれたのは「アスランディア」だ。アスランディアのことならよく知っている。何度も何度も絵本で読んだのだから。
天地創造の七日間の後、愛し合う二人は一つの大地の上で互いの世界を分けた。
即ち、昼の世界と天を総べる太陽の息子アスランディア。
即ち、夜の世界と地を総べる月の娘イクストゥーラ。
アスランディアは夜の世界に行くことはできなかったけれど、イクストゥーラは昼の世界に行くことができた。
イクストゥーラが訪れるたびに、アスランディアはとても喜んで歓迎した。
二人は愛し合い、喧嘩をし、仲直りをする。
アスランディアはイクストゥーラが訪れるのを、心待ちにしている。
「アスランディアは、イクストゥーラを愛しているのだから」
声に出す。自分自身に言い聞かせるように。
そのとき、不意に胸の奥底から言葉が蘇ってきた。鋭い痛みを伴って。
──アスランディアが滅びたのはイクストゥーラが裏切ったせいなんだ。だから、いまでもアスランディアの民はイクストゥーラを憎んでいる。
「アスランディアは、イクストゥーラを憎んでいる……?」
あの「歴史」の本に書かれていた文字は、いったい何を意味していたのだろう。
アスランディア王国の興亡。
「サンジール暦七九八年、春。アスランディアとの国境において、イクストゥーラ軍第二師団が攻略に成功したのを機に、戦いの火蓋が切って落とされる」
文章は読めた。覚えている。でも、意味がわからなかった。
アスランディアとイクストゥーラは太陽の息子と月の娘ではなかったのだろうか。
──やめるんだ。ここは月神の国イクストゥーラだ。アスランディアっていうのは、滅びた国の名であり、滅びた国の神の名だ。あまり呼んではいけないんだ
「国の名、神の名。国って何……神って──」
わからない。それが何なのか。どういう意味なのか。
確かなものはつかんだと思ったそばから、手をすり抜けていく。
何が本当なのだろう。本当とはなんだろう。
いつしかセリスは瞬きすら忘れていた。
目から涙が出ている。
熱くて、痛い。
これは、たしかなことだろうか。
セリスはゆっくりと身体を起こし、暗がりの中で自分の手をじっと見つめた。涙の雫が落ちた。熱いような冷たいような不思議な感覚だった。
「熱い……、痛い……」
記憶があふれる。
──どこか痛いの?
──痛い?
──痛いっていうのは……ベッドの角に足の小指をぶつけることよ! それから、そうね……、もうおよしなさいと言われたときに食べ過ぎてしまったとき! お腹が、とっても重くて、あれも『痛い』だわ。
──うーん……。
──あとは……、出来たてのお料理をつまみ食いするために手で掴んでしまったとき!
──それはおそらく『熱い』という。
──あ、そっか。そうね! でもね、その、とっても『痛い』に近いと思うわ。
──さっきから聞いていれば……、お前随分ドジな上に、くいしんぼうなんだな。『つまみ食い』なんて言葉、どうして知ってるんだよ!
(見つけた)
それはあまりにも遠く頼りない記憶だったけれど。
たしかなもの、本当のこと。
知っていた。
わたしは神を知らない。国を知らない。歴史を知らない。これは、おかしいことではないのか。
王宮の書庫と離宮の書庫は、規模だけではなく、その内容において大きな隔たりがあった。
結果的に、離宮から出ることのかなわなかったセリスには、決して知りえないことがいくつもあった。
与えられなかった情報はいったい何なのか。誰の作意が働き、選別されたのか。
知らなければならなかった。
目を逸らしてはいけないのだ。
なぜなら今日セリスがたまたま書庫に到達しなければ。
その誰かは、ことこの期に及んでも、ずっと隠し通そうとしていたのだろう。
(何のために?)
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