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はじめ、自分に何が起きたのか理解できなかった。
どくどくと、心臓が、知らぬ間に高鳴っている。まるで自分のものではないみたいだ。
息苦しい。
意識が白くかすんでいた。
(私は、いま、何を、考えたの……?)
一瞬、自分が何か違うものになってしまった気がした。
それほどに強い思いがとめどなく全身を駆け巡っていた。
止めようもないほどに。
(嘘。いや……わたし、私、こんなの、わたしじゃない……)
身体が傾ぐ。
思いが強すぎて、涙が滲んだ。喉が詰まる。なんとか手すりにしがみついて、やり過ごそうとするものの、強いめまいと耳鳴りが消えない。
(私、いま……、願ってしまったかもしれない。皆の幸福ではなく、唯一人の笑顔を──)
──唯一人を、選んでしまったかもしれない。
その可能性は恐ろしすぎて、到底受け入れることはできない。
「幸福の姫君」は、世界を繁栄に導くための王を、伴侶として選ばなければならない。
そのことは、今では以前よりよく知っていたし、理解しているつもりだった。
どこまで効き目のある予言か自分でも半信半疑な面はあったが、ともかく、絶対に間違えないようにしようと思っていた。
誰もが幸せになれるように、最良の相手を選ぶ責任が自分にはあると、心得ていた。
それなのに。
いま、なんの前触れもなく。
自分の中の何かが、相手を定めた。
信じたくはなかった。
その瞬間、そこには崇高な理想も輝かしい未来も関係していなかった。
言うならば欲望だけがあった。
面倒くさいが口癖なくせに面倒見が良くて、どんな時も真っ先に駆けつけて守ってくれる。その強さ。
いつもそっけないくせに、ときどきバカみたいに優しいことを言う。
――選ばなければ良いだろう
本当は誰も選びたくないと言ったとき、「姫にはお役目が」なんて真面目くさって諭すことなどせずに、率直に言い放った。
あのとき、もうすでに、セリスの中で何かが目覚めてしまっていたのかもしれない。
(選びたくなかったわけでは、ないの。本当はもう、選びたいひとがいたの。でもそのひとを選んだとき、どんな結果になるかが怖くて、想像もつかなかったから、すべて投げ出したいと思ったの)
――「幸福の姫君」である君の前には、今日から引きもきらず求婚者が群れをなすだろう。中には力ずくで手に入れようとする輩もいるかもしれない
はじめて会ったとき、ゼファードはおどけてそう言った。君は男たちに望まれる存在なのだ、と。
けれど、セリスはもう気づいてしまっている。
誰も彼もが、『幸福の姫君』に選ばれ王になることを望んでいるわけではない、ということに。
すでに愛する者がいれば、女性としてのセリスを省みることはないだろうし、さほどの野心もなければあえて覇道を進みたいとも思わないかもしれない。
そも、予言がなければセリスは、いかにも貧弱な幼い娘でしかなかった。魅力があるとは、到底思えなかった。端的に、「自分が誰かから」選ばれる自信なんかひとかけらもない。
誰か――思い描く相手はただひとり。
ラムウィンドス。
(わたしは、ラムウィンドスに、大切な誰かがいるかどうかは知らない。考えたくもない)
はじめて目にした相手が、ラムウィンドスだった。
不安なときに横にいてくれたのがラムウィンドスだった。身を守る方法を教えてくれたのもラムウィンドスで、アルザイの襲撃のときも駆けつけてくれた。
森の中で二人きりになり、普段見せないような笑顔を見せられたときには、息が止まるかと思った。
はじめから答えは出ていたようなもので、自分はずっとラムウィンドスしか見ていなかった。
(わたしがあのひとに、選ばれるとは思えなかったから。それに、もしわたしのこの「選択」をあのひとに受け入れられたとして、わたしは耐えられない。「幸福の姫君」だから伴侶となることを了承するのではなく。「セリス」だから、「セリス」だけを)
月が見ていた。
イクストゥーラのまなざしが、銀の髪に注がれている。自らの欲望に屈して懊悩する月の娘を、じっと見ている。
できることなら逃れたかった。
同時に、月に知ってほしかった。
月の娘が「幸福の姫君」としての道を外れていく様を。
アスランディアとの愛をなんの疑問もなく育んだイクストゥーラに、知って欲しかった。
それはただの嫉妬で、あさましい感情だったが、紛れもなくいまのセリスを蹂躙して覆い尽くさんとしているものだった。
苦しさに脂汗まで滲んできたが、もはやセリスはその感情から逃れようとは思わなかった。
(これも私。あのひとを愛して、愛されたいと願う、自分勝手でわがままなだけのひどい人間なんです)
そのまま息苦しさに耐えていたときに、不意に乾いた音が耳を打った。
反射で、身を引いた。バルコニーのぎりぎり隅まで。勢いが付きすぎて、手すりに背を乗せるような格好になった。落ちる、と覚悟する。
「危ない」
宙から軽やかにその場に降り立ったラムウィンドスが、セリスの腕をひいた。
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