【間章】 もう一つの別れ

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 大きな足音が聞こえたときから、予想はついていた。  読みさしの本に、銀の透かし彫りの栞を挟んで閉じて、ゼファードは読書用の眼鏡を外してドアを睨みつけた。ノックの代わりに響いたのは、予想に違わぬ声。 「おい、お前が歓迎の宴を開かねぇどころか、おっかねえ監視が四六時中ついてて息が詰まる。どこにも出歩けなかったぞ。開けてくれ、両手がふさがってる!」 (うるさい)  このまま大声で叫ばれ続けるのは好ましくない。ため息とともに立ち上がり、ドアを開ける。  片手に三本ずつ酒瓶を下げたアルザイが、足音も高く乗り込んできた。  落ちてきた髪を指でかきあげながら、ゼファードは陰鬱な調子で言った。 「迷惑な方だ」  アルザイは勝手知ったる部屋とばかりに、低い卓に瓶を並べる。  紫檀の棚から施釉(せゆう)陶器の高杯を取り出していた。何も手を出すことはなさそうだと、ゼファードは卓を挟んで向かい側に腰を下ろし、絹の長枕にもたれかかるように座った。  すぐに、せわしなく準備を終えたアルザイも胡座をかいて座った。 「飲むぞ」  手際よく杯に葡萄酒を注がれてしまい、ゼファードは嫌々であるというのを隠しもしないまま手を伸ばした。  口をつける。  目の前ではアルザイが、一息に最初の一杯を飲み干していた。手酌でさらに注いでいる。それを無感動に眺めながら、ゼファードは杯をテーブルに置いた。 「何か用ですか。ラムウィンドスはいないですよ」 「オレはお前と飲みにきたと言ったはずだが」 「何のために?」 「なんだ。年とって少しはこなれたのかと思ったら、全然変わんねえのな。神経質だったクソガキの頃と」 「余計なお世話ですね」 「親父が友の国滅ぼしたことに怒って、お前は銀の髪を染めることで親を捨てた。意味があったかどうかは、知らんが」  ゼファードの顔が、はっきりと険のあるものに変わる。  アルザイは空いた手を広げて、おどけたような仕草でどうどう、と言った。ゼファードは振り切るように顔を逸らすと、杯を手に取り、一息に飲み干した。それを見てアルザイは笑みを深める。ゼファードが杯を置き、瓶に手を伸ばすと、すかさず取り上げて注ぐ。ついでのように自分の杯にも注ぎ足しつつ、何気ない調子で口を開いた。 「無理するなよ。この酒は結構、強い。酩酊する」 「嫌味な方ですね。お前は弱いのだからとはっきり言えばいいのではないですか」  忌々しげにゼファードが言うと、アルザイは穏やかに微笑みつつ杯を傾けた。うまそうに飲み干してから、思い出したように呟いた。 「肴がないな」 「良いではないですか。私もそれほど付き合うつもりはありませんし」 「お前は可愛げがない。ラムウィンドスの方がまだ愛想があるぞ。あいつはあれで結構付き合いがいい」 「ではラムウィンドスと飲めばいいでしょう」  ソファに背を預け、ゼファードは大きく息を吐き出した。  喉をおさえて上着の合わせ目を指で引っ掻くようにする。少しだけ緩めると身体を傾け、絹の枕にもたれかかり、もう一度ため息をついた。その様子をじっと見ていたアルザイは、目を伏せて杯に唇を近づけて一口飲んでから、再び視線を流した。 「いいのか? ラムウィンドスと飲んだら、潰してお持ち帰りするぞ。砂漠まで」 「どうにでも。あいつのことでいちいち私に許可を求めるのはおやめ下さい。もしラムウィンドスがそうすると決めたなら、私には止められない。せいぜいあなたに利用されればいいんだ。亡国アスランディアの王子として、オアシス都市連合によるイクストゥーラ侵攻の大義名分の旗印として」  ひどく億劫そうに言うと、ゼファードは額をおさえた。しばらく指でぐしゃぐしゃと緑の前髪をいじっていたが、やがてその動きも止まる。  空になった杯に酒を注ぎ、舐めるように飲みながらアルザイは呟いた。 「さすがに弱すぎだろう」  すると、ゼファードは微かに呻き声をあげた。やがてそれは不明瞭ながらもなんとか言葉となった。 「聞こえています」 「おお、起きてたのか。もう一杯飲むか」  ゼファードはしばらく沈黙を保っていたが、ゆっくりと身体を起こした。前のめりに沈み込みながらも、杯に手を伸ばす。アルザイは笑いつつ瓶を持ち上げる。  酒を注いだのは自分の杯だった。 「無理はするなと言ったはずだ。お前が俺に対しても付き合いがいいことはよく分かったよ。一人でよろしくさせてもらうから、少し休んでろ」  低く呻いて、ゼファードは再び長枕に身を沈めた。
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