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「このままだと、寝ます」
「わかったわかった。寝てろ」
「ここは私の部屋です。主の私が寝るわけにはいきません」
「ああ。融通がきかないのも昔のままだな。お前もラムウィンドスも、二十年前から全然変わってない」
「いちいち昔のことを言うのはおやめ下さい。年寄りの悪いクセですよ」
吐き出すように呟き、ゼファードは顔を上げぬまま腕を伸ばした。何もない空へと。高杯を探しているようだったが、まったく見当違いの位置を探っていた。
アルザイは音も立てずに、すっと立ち上がった。
部屋を横切り、隅の台にあった銀の水差しを引っつかむと、戻ってきて杯に注ぐ。まだ何かを探している手に持たせる。ようやく目指すものを掴めた手は、震えながら引き返していったが、結局途中で取り落としてしまった。
「ゼファード」
幸い、高杯は絨毯の上に転がって割れはしなかった。が、ゼファードは胸から膝まですっかり水をかぶって濡れてしまっている。しかも、それを拭く気配もない。
アルザイは水差しを置くと、無言のまま卓を迂回し、ゼファードのそばに膝をついた。
杯を拾い上げてテーブルに戻す。それから、躊躇いがちにゼファードの髪に触れた。気付いていないのか、反応がない。アルザイは、身体に見合った大きな手のひらでゼファードの頭を数回撫でたあと、傷んだ髪を指で梳いた。ややして、小さく呟いた。
「無理してやがる」
「……聞こえています」
「そうか」
苦笑をもらして、アルザイは立ち上がる。背を向けて元の席に戻ろうとした。しかし、黒衣の裾を強い力で引かれて、足を止める。
「私にとって、『兄』とはあなたのことです。私もあいつも、結局のところあなたの背ばかり追っていた。いつもいつも。互いの国があんなことになっていてさえ」
「そうか」
「しかも、あなたはこれから王になられるという。何故です」
「流れだ。誰にも止められない。無論、俺自身、止まる気がない」
アルザイは肩越しに振り返った。すがるように衣の裾を引っつかんでいるのが、一瞬小さな子どもに見えた。
それは錯覚にすぎない。
誰も彼もが、とうの昔に子ども時代を終えている。
ゼファードの指が、衣に食い込んでいる。アルザイはその場に膝をついた。ゼファードの手に手を重ねる。
そのとき、ゼファードがゆらりと体を起こした。
「どうしてあなたはそう、迷わないんですか。前を見て進んでいけるのですか。私は不安でたまらないというのに」
「王位を継ぐのが? それとも俺と戦争をするのが? ラムウィンドスがお前を裏切るのが?」
答えずに、ゼファードはアルザイの首に正面から両腕をまわした。絞められてはたまらないと、五指で片方の腕を掴んで押さえつけながら、アルザイは苦笑した。
「兄と弟でいるのもこれで最後にしておくか」
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