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幸福の姫君という肩書こそあったが、自分が忠誠を向けられる存在であるとは、いまやどうしても思えないセリスである。
だからこそ、旅の間のアーネストの濃やかな献身には、戸惑いもあった。
だが、彼は自分ではなく別の人をセリスの向こう側に見ているのだと、不意に気づいた。
その人は、現在の主君であるゼファードよりもアーネストを左右する存在であったに違いない。
──姫を守れ。
ゼファードに言われるまでもなく、アーネストが心を決めていたのは、きっと。
もっと以前に、そう言い残して去った人がいたせいだ。
その約束故に、アーネストはセリスを守っている。
自ら砂漠の国へ行きたいと申し出たセリスのワガママを叶えるべく、すべてを擲って同行してくれた理由は、それしか考えられない。
「……ついに来てしまったんですね。アルザイ様のおひざ元」
セリスが呟くと、アーネストも「せやな」と小さく言った。
「旅の終わり、な。あのアホンダラはどう落とし前つけてくれるんやろな」
ラムウィンドスからセリスを押し付けられたせいで、苦労しきりだったせいか、アーネストが彼の人に寄せる思いにはいつも、愛憎が入り混じっている。セリスは俯いた。
大切なことを「何も知らない」ことに気付いたセリスが、猛烈に情報を詰め込み、身体を鍛えて、砂漠へ向かうことをゼファードに納得させるまでには三年という相応の年月が流れている。
その間に、アルザイの側でももちろん動きはあった。
初めは無名の一兵卒として軍に放り込まれたらしい元イクストゥーラの剣士が名をあげるには、十分な期間だった。
燻っているオアシス都市間の小競り合いという実戦に投入されては、相応の戦果をあげて。
或いは地下水路の構築に関わり、指揮官の能力を発揮したとして。
アルザイの後ろ盾があるにせよ、頭角を現して要職へと順調に上がっているらしい。
(旅の終わり……。この旅はあの人に会えば終わるんだろうか)
その名が聞こえるたびに、ゼファードが青ざめていたのを知っている。
彼が「王子の敵になる」そう言った日が現実になるのもそう遠くないと、セリスも思い知った。
外交的手段で止められるものなら止めたかったが、アルザイは一切応じないと聞いて、ならば自ら出向くとセリスは出奔を決意するに至ったのである。
そうしてここまで来たのだが。
外交で取り合わないアルザイが、正面から名乗りを上げても会ってくれるかどうかはわからない。そもそも、王宮に近づくことすらできないに違いない。
(それでも、どうにかして会わねば……! ここまで来たのだから)
ぶらぶら歩いているようで、屋台を冷かして品定めしていたアーネストが、思い出したように言う。
「今日は宿でゆっくりしような。姫さんと砂漠で見た星空はなかなか格別やったけど、今晩はベッドで熟睡するわ」
冗談めかした口調に、セリスも笑って頷いた。
「ずっとアーネストには頼りっぱなしでしたからね。今日は僕が寝ずの番でもいいですよ?」
アーネストは答えずに、不意に足を速める。手を引かれて、セリスも続いた。
何、と聞く間もなく、立ち止まったアーネストの背にぶつかる。
「旅の方、何かお急ぎですか。少しお話しませんか?」
雑踏の音が不意に遠のき、その声がやけにはっきり耳に届いたのは、おそらく明確に自分たちに向けられているせいだろう。
アーネストに並び立つように、セリスもまたその声の主と対峙した。
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