その夜の出来事

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 知識がまったくないわけではない。覚悟もそれなりにある。  納得とは別だ。  夜の顔合わせの前にと、女官たちに大げさなまでに湯浴みを指図され、香料を体中にすりこまれ、深紅の衣装と贅沢な花で髪を飾り立てられたときに、ライアは忌々しいほどにアルザイの思惑を理解した。  本国からついてきた護衛たちは遠ざけられ、付き添いはアーネストだけ。  そのアーネストには、自分の磨かれた姿を見て欲しい気持ちと、他の男のための装いなど絶対見て欲しくない気持ちで心が千々に乱れていたが、ライアが身支度を終えてきたときにはすでにいなかった。  彼は彼で、かつての上官に呼ばれて出てしまったらしい。ライアの護衛ではないので、その動きを咎めることなど、無論できはしない。 (一人で──)  同席とはいかなくても、護衛の一人もつけさせないとは。  そもそも、ろくな荷物も持たずに拘束された女性に、衣服その他を用意するのは君主としての甲斐性といえばそれまでだが、アルザイの趣味で選んだものを一方的に与えられるのライアとしては屈辱に近い。まして、それを身に着けて一人で来いなどと。 「嫌な男」  憎々しげに、呟く。  * * *  予想通り。  むしろ予想以上にライアとアルザイ二人きりの宴席は寒々しいものだった。  絨毯の上の低い卓に豪勢な食事が所狭しと並べられ、最上級と思われる果実酒を供されたものの、盛り上がる余地はないどころか時が進むにつれて場の空気はいよいよ冷え切っていた。  最初こそアルザイは会話を試みていたものの、 「噂以上にうつくしい姫君で」  などと言おうものなら、 「眼中に入らなかったくせによく言いますわね」  とライアは冷笑のみ。  ライアは、マズバル同様権勢を誇る都市の王族筋らしく、いけすかない高飛車さで会話をいちいち潰しにいき、アルザイもすぐに匙を投げた。  互いに冷めた食事に手を出さず、話し声も途絶え、酒の杯だけがもくもくと進んだ。  やがてアルザイは給仕を務めていた女官や小姓をすべて下がらせた。 「ライア王女。俺はもってまわった話が嫌いだ。あなたはこの縁談をどうしたい」  杯を顔の前で止めて、アルザイはライアに問う。 「私に選択権があるという意味ですか? 見ての通り私はあなたに砂一粒ほどの関心もありませんけれど」 「言ってくれるな」  アルザイは瞳を剣呑に光らせ、半笑いで杯をあおる。  襟の高い白いシャツに、紅い布を肩からかけている。黒髪は布も巻かずに伸ばしっぱなしで、耳には紅玉石の耳飾り。昼に会ったときより若々しい印象だった。  大柄な体格に見合い、肩幅が広く、骨っぽい手も大きく、投げ出した足も長い。彫りの深い精悍な顔だちに、髭の散った粗削りな顎や、酒を飲んでもほとんど変わらない顔色、瞳の強さ。  今は皮肉っぽい表情しかしないが、笑ったらきっと多くの人をひきつけるのだろう。  砂一粒ほどの関心もないと言い切ったライアでさえ、アルザイという人は猛々しくも魅力にあふれているのがわかる。  控えめに言っても顔は良い。  政策も良い。  おそらく、頭が良い。  お互い腹を探るのに明け暮れてしまったが、本当はもっと違う話がしたかった。  たとえば、この人が自分の夫になる人だと、ある日突然ひき会わせられたとして、嫌いになれたかは難しい。今は心理的な反発があるが、なんの因縁もない状態で会えば、それなりに好感を抱いたと思う。  だが──。 「さて。あなたは俺に関心がないそうだが」  カタン、とひそやかな音を立てて、アルザイが杯を置いた。  次の瞬間には、ライアのすぐそばに足を踏み出し、片膝をついて身を乗り出していた。 (早い)  酒が入っているとは思えぬほどしなやかな、獣のような動作だった。 「ここには何をしに来た? 俺の妻になるのが、それほど待ちきれなかったのか」   吐息がかかるほどの間近さで、睨み合う。  近すぎる。  咄嗟に立ち上がって逃げようとしたが、衣の裾を踏まれて動きを封じられ、そのままその場に押し倒される。気付いたときにはアルザイが上にいた。
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