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セリスが半身を起こすと、アルスが恐ろしいまでに澄んだ紫の瞳を輝かせて言った。
「まだ薬が効いてます。無理をしないでください」
アルスは音もなく立ち上がり、セリスに背を向ける。
戸口まで歩み寄ってから、アルスは振り返って言った。
「あの護衛があなたから離れましたからね。旅の途中、何度となく襲撃を受けていたでしょう」
「それはアーネスト狙いで……」
「確かに彼は綺麗な青年ですが。すべてがすべて彼を狙っていたわけではありません。もう少し、自分が人の目にどう映るのか、考えなさい」
セリスはぼんやりとした目でアルスを見返し、呟いた。
「……僕の話をしているんですか?」
アルスは盛大な溜息をつき、手で額をおさえる。
「来るぞ」
戸の外にあった気配が消えた。アルスは、ことさら無造作な仕草で戸口の布をまくって外に出た。
その次の瞬間。
くぐもった呻き声、金属のぶつかりあう音、水音が弾け、重いものが壁を打つ衝撃があった。ごろりと戸口の床に人の腕が転がる。
セリスはいまだ痺れの残る手で剣を抜いて握りしめた。
「この野郎ッ」
怒号が飛び交う。床を踏みしめる足音が聞こえる。そんなに広い空間だっただろうか。暗い中抱きかかえられて連れ込まれただけなので、把握していない。
ただ、剣と剣がぶつかり合う音の合間に、壁や床に衝撃があるのを感じる。
そのたびに、胸がびくっと鳴る。喉が干上がる。荒々しい気配が迫るのを感じる。
見慣れぬ腕が、戸口の布をまくったと思ったら、男が一人飛び込んできた。
セリスと目が合うと、舌でぺろりと唇を舐めた。
「これはまた、見事な月の乙女だ」
目がせわしなく、セリスの顔や身体を見る。舌がまた唇を舐めている。セリスは剣を握る手になけなしの力を込め、強く睨みつけた。男が喉を鳴らして、くぐもった笑いをもらした。
「いい目してやがる」
アルスに弄ばれたときより、何倍もの気持ち悪さがこみあげてきて、手が震えた。
男がゆっくりと歩いてくる。
「何、そんなに怖がるなって」
(戦わなければ)
腰から下がまだ、自由にならない。動こうとして、勢いあまって体勢が崩れる。影が落ちた。すぐそばに男がいる。
「なんだ、立てねーのか。あの優男にもうやられちまったのか」
頭上から降ってきた下卑た声に、セリスはかっとして剣を突き出した。それは油断しきっていた男の足をかすり、身に着けていたズボンを裂いた。
「こいつ……っ!」
男が腕を伸ばしてきてセリスの胸倉を掴む。セリスは歯を食いしばって男を睨みつけた。何をされても絶対に食らいついて撃退してやると。
だが、男が声を発することは二度となかった。
背後から貫かれ、喉から剣を生やして絶命していた。
剣を刺した人は、そのまま男を投げ捨てようとし、男の指がセリスの胸元に絡んだままなのを見て、手で引きちぎるように外した。
とても久しぶりの、今はもう懐かしい無表情がセリスを見下ろしていた。
髪が短くなった。砂漠風の、首に添う襟の高い服を着ている。眼鏡をしていないせいで、秀麗な面差しが隠されることなく際立っていた。
視線が絡むが、互いに言葉がない。
一瞬かもしれないし、もう少し長かったかもしれない。
先に目を逸らしたのは相手の方で、男に突き刺した剣を抜くと、戸口に向かって声を上げた。
「アルス。突破されているぞ」
すると、戸口にアルスがひょこっと顔を出した。
顔は笑っているが、凄惨なまでに返り血を浴びていて、濃厚な死の気配をまとっていた。
「彼もせっかく剣を持ってるみたいだから、戦いたいかなと。一人まわしてみた」
「殺す」
簡潔に告げて、めざましい早さで切り込む。予期していたように、アルスは剣を受けた。そのまま、狭い空間をものともせず、二人は剣で打ち合う。
「ああいやだ、ラムウィンドス本気だ」
アルスは一度身を引き、距離をとる。そして、笑みをこぼして底抜けに明るい声で言った。
「いいこと教えてやるよ。月の姫君は、もう、お前のこと好きじゃないって」
「なに……っ!?」
ラムウィンドスが動揺した。
アルスはにやにやと笑いながら、セリスに片目を瞑ってくる。そんなお茶目な仕草をされても何もわかりません、とセリスは目で訴えたが、通じた気はしなかった。
「それでね。『幸福の姫君』はこれから伴侶を選び直すのかなと思って。姫に手を出しました。ラムウィンドス、来るの少し遅いから」
「少し遅……、ああ、これマジで死ぬほどむかつく」
むかつくという割に、剣を振るう気配がないのは、むかつく対象がアルスではないせいかもしれない。
言いたいことを言いたいだけ言い終えたらしいアルスは、倒れ伏して絶命した男の足を持ち上げて、ひきずりながら戸口に向かう。
「後はまあ、少し二人で話し合いなさい」
振り返らず、後ろ手でひらっと手を振って、去った。
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