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セリスは闇雲に王宮の廊下を歩き続けていた。
立ち止まったら、泣くんじゃないかと思った。
もう泣いていた。
勝手にこぼれてくる涙をときどき服の袖で拭いながら、とにかく歩いていた。
(自分が何をしたかわからないほど、子どもじゃない。裏切り? どうだろう。失望させた? 少し違う)
月の国から三年間、ラムウィンドスへ抱き続けてきた思いを、粉々に砕いたのだ。本人を前にして。
鋭利な破片となった思いの残骸は、次から次へと溢れ出て、ラムウィンドスを傷つけた。
(あのままラムウィンドスのそばにいたら、わたしは「姫」になってしまう。あの人は男装の「僕」を認めていない。近くにいたら、きっとわたしの意志が挫かれる。ラムウィンドスの性格が無茶苦茶強いから。負ける)
確信。
再会して、顔を見て安堵して、口づけを許してしまった。
あのときのラムウィンドスの仄暗い瞳は、今思い出しても足が震えそうになる。望み、願い、奪おうとする男の目をしていた。側にいることを許してしまったら、セリスは確実に追い詰められる。自分を手放してしまいそうになる。そんな場合ではないのに。
(アルザイ様から話を聞いたいま、わたしには時間が無いはず。強くなりたいんです。今よりもずっとずっと。血相を変えて守られる存在ではなくて。兄様を助ける方法を、生かす手段を探さなければ)
力の無さに絶望するのは簡単だ。だが、セリスはこの時代の、王族に生まれついている。まったくの無力ではない。
ゼファードは、向いていないのだと言って、剣を握ることはなかった。それでも、アルザイもラムウィンドスも「王」として認めている。月の国を背負って、うまく立ち回ると信頼されている。芯の強さと、明晰な思考や判断力を、こんなに離れていてもアルザイに認められている。
そのゼファードをむざむざ死地に追いやってはいけない。
歩き続けていても、すれ違う人に奇異の目で見られるだけと気付いて、廊下の切れ目から中庭に出た。
青い模様の古びたタイルの上を導かれるように歩き、低い木の茂みに身を隠す。
見回りの兵が来たら曲者と思われて刺されるかもしれないと思いつつ、膝を抱えて座り込んでしまった。
(しっかりしよう。アルス様が言っていた。「身体を繋げば選んだことになるのか」と。恐らく、以前の「幸福の姫君」イシス様は、そうやって「伴侶」を強制的に選ばされている……。逆に言えば。それさえなければ回避できる……? たとえ心が選んでいても)
アルザイが言うようにセリスが「月の国が、以前の予言の姫に味を占めて仕立て上げた二代目」で偽物ならば問題はない。おそらくそうだとセリスは信じている。
だが、セリスに関して予言はすでに一人歩きをしている。この状況下で──
ラムウィンドスを選んではいけない。
月の国の人間として、セリスが選ぶべきは、ゼファードしかあり得ない。
(もしくは、すでに覇道を歩んでいるアルザイ様だ)
それ以外の人間が覇王に名乗りを上げれば泥沼の戦争を引き起こす恐れがある。
予言が無効で当代の「幸福の姫君」は偽物であるという証明がどうしたってできない以上、心も体も他の誰かに捧げるわけにはいかないのだ。決して。
たとえアルザイが、自らの後継者としてラムウィンドスを考えているのだとしても、そんなことはまだわからないのだから……。
遠くで、噴水の水音がしていた。
風まで涼しく感じる、とセリスが顔を上げたとき、ふっと影が落ちてきた。
「おや。見慣れない人がいますね」
頭上から声がかかり、顔を上げたときにはすでに濃い鳶色の瞳に姿を捕捉されていた。
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