生きるための嘘と本当

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「アルザイ様の政策でかなりの重点が置かれているのは地下水路事業であるのは君も知っているだろう。この乾いた地にあって、水ほど貴重なものはない。しかし一口に水と言っても、その性質は様々だ。たとえば正しい医学を学びたいのならば、まずその街の水を知らなければならない、という。味や重さ、軟性か硬性か、沼地のものか高地のものかそれとも塩辛いものか。水はその土地に住まう者の生活習慣と密接に関わっている。それを知ることによって地域の特色を知り、人々の生活を知り、はじめて地方特有の病気や季節ごとに流行りやすい病を誤らずに見立てることができるようになる。医学だけではない、農業でも同様のことが言える。水の性質はつまり土地の性質でもあり栽培可能な農作物を大いに左右する。それは人々の生活を、肉体を、規定していく。麦の安定してとれる地と、草木も生えない地の生活様式が同じであるはずがない。人々の肉体の作りが同じであるはずがない。我々が把握すべきことはそういった土地柄といったものであり、だから私は手始めにこの国の領域における風土、特色、人のこと、そして水の話を君にする」  セリスは後に知る。エスファンドの二つ名が「反論の余地なき者」であることを。  地図を開くこともなく、滔々と語り続ける内容を、セリスはその場で座して聞き続けることになった。  飽くことはない。  凄まじい情報量が淀みなく整理されていて、膨大な書物を効率よく読むような、異常かつ贅沢な体験であることは震えるほどに感じられた。  時間の経過はほとんど一瞬に過ぎなかった。  気づいたときにはすでに陽が落ちかけていて、薄暗がりの中で並んで座っていまだに話し続けていたエスファンドがようやく「喉が渇いた」と呟いた。  彼の配下と見られる少年がたびたび飲み物や食べ物を届けてくれていたのだが、二人とも水を口にする以外にはまったく手を付けていなかった。  いくつか届いていた盆を眺めて、無造作に持ち上げると「とりあえず食べておこう」と差し出してきた。 「これは……薔薇の砂糖漬けですか」 「甘い。疲れたときには効く」  女官たちが溜息をこぼしそうなうつくしい花びらを、もしゃもしゃと無感動に食べる様を見ながら、セリスもとりあえず口に放り込んだ。もしゃもしゃ……と咀嚼して、水で飲み下す。 「メロンもある。飲み物はいる?」 「はい。喉は乾いてます」  エスファンドが盃に薄焼きの壺から濃い液体を注ぐ。  鼻につき、胸を染めるような独特の芳香が立ち上りこれはもしやと思ったセリスだが、すでに盃を受け取ってしまっていたし、水は飲み干していて、他に飲み物はなさそうだった。  一瞬ためらったセリスに、エスファンドは悪びれなく言った。 「酒の形をしたぶどうだ」 (そうか、ぶどうなのか)  腹をくくって飲むことにした。セリスにとって分が悪かったのは、その年まで酒を嗜む習慣がなかった為に、推奨される飲み方など知らなかったこと。何しろ喉が渇いていたので、水のようにするっと一息で飲み干してしまった。  喉が焼けるかと思ったが、飲み下してしまえば平気そうだった。  手酌で盃を傾けていたエスファンドは、空になったセリスの盃に再び酒を注ぎ、無言のままセリスはまたもや飲んだ。  ──そこで意識が途絶えた。
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