才人の妥協

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「うん。それらは古き良き書物だ。そして権威だ。それはある時代、ある場所では優れた知見であったはずだ。しかし昨日も言ったように、地域ごとに気候や自然条件は違い、地質も水質も食文化も違う。書かれた地域以外にその書をそのまま適応させようとするのは無理がある。だがある種の権威はその事実を見誤らせる。利用できるはず、できないのは何らかの努力不足なのだと読む者に思わせる。その結果が今日のマズバルでありアルザイ様統治下の砂漠の国だ。この図書館には他国から持ち込まれて翻訳された本がこれほどにある。しかし、この国で独自に書かれたものが実は非常に少ない。翻訳書は、役に立つ部分もあればまったく役に立たない部分もあるし、無理に適合させようとすれば害悪になりかねないものもある。では今我々は何をすべきか?」 「既存の書物に合わせるのではなく、この国に適合する書物を編むことでしょうか」  ダン、と大きな音がしてセリスは息を呑んだ。  エスファンドが卓を両手で叩いて立ち上がったところだった。 「正解だ」  そのまま歩き出してしまったので、セリスは慌ててその背を追う。  男性の間にあれば小柄で華奢なセリスからしても、エスファンドはさほどの威圧感がない。ずばぬけた長身というわけではなく、痩せていて、追いかける背は大きくもない。けれど目が離せない。 「やることはたくさんある。水のこと、土壌のこと、耕作時期や天候のこと、作物の保存方法や調理の知識……。作物ごとにその土地の名人と呼ばれる者がいるはずだ。土地を実際にめぐり歩き、探し出して話を聞く必要もある。書を編むときには、その文体は詩歌(しいか)のようにうつくしく軽やかでなければならない。何故だかわかるか」  廊下に出て早足で歩いていたエスファンドが、突然立ち止まると振り返って聞いてきた。 「詩歌のように……。わかりやすくするためですか?」  いかにも難しい文字列の書物は、それだけで初学者をよせつけない。広く普及させたい知識であるならば、読みやすい方が良いということだろうか。セリスはそう考えたが、エスファンドにはやや不十分であったようだ。  眉を寄せて、セリスの顔を覗きこんで言う。 「文字を読むというのは、学ぶことに時間を割ける者の特権なのだ。アルザイ様の政策には各地に『学院』を設立するという計画も盛り込まれているが、識字率が上がるのはずっと先のことだろう。しかし、農作業の間に歌える詩歌のように『農書』を紡げば、必要な知識を必要な者へ届けやすくなる。後代にも伝わりやすくなる。物語である必要はないが、うつくしく軽やかであるのは絶対条件だ。外せない」 「はい」  気圧されつつ、それだけの返事が精一杯だった。エスファンドの熱情が、あまりにも快い。セリスの胸の中にも、熱がこもっているような感覚があった。  おそらく、きわめつけの才人のはずだが、エスファンドには人を威圧したり軽んじたりする態度がない。セリスと話すにあたり、事前にものさしをあてて「お前はどの程度の人間か」と期待をしたり失望したり、そういったある種の身勝手さが感じられない。  話しぶりも滔々と淀みないが、自分の話ばかりをしているという押しつけがましさがない。セリスが話せば聞いてくれるという安心感がある。   「そういうわけで、私は『農書』を編む為の人材を集めていた。マリクにはそこに加わってもらうことになる。今日、皆に紹介する。調査に出ている者もいるので全員揃うことはないが。マリクもいずれ出るかもしれない。おっと、そこはアルザイ様に要確認か」  アルザイの名前が出てくると、自分の立場が急に思い出される。 「そうですね……」  唇を噛みしめるように言うと、エスファンドがふわりと笑った。
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