才人の妥協

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「そんなに悔しそうな顔をしなくても。王宮にいてもやることはたくさんある。調査には調査に向いた人材を出しているんだ。マリクの適性はこれから見極める」  笑うと、それまでの超然とした彫刻さながらの容貌からは思いもかけないほど親しみやすく、少年のような印象になる。  その落差を目の当たりにして言葉を失いかけつつ、セリスはなんとか頷いた。 「適性を……。そんなことを言われたのは初めてです。僕は生まれたときから役割が割り振られていて、それ以外をあまり期待されない人間だったので」 「ふぅん。王族ならではなのかな。しかし『向いていること』や『やりたいこと』というのは難しいものだ。今の時代、それを追求するなど多くの者にとっては現実的じゃない。目の前の生活が精一杯だ」 「エスファンド様でもそのようにお考えになるのですか?」  農書の編纂に関して、生き生きと語られた後だけに、エスファンドはやりたいことがはっきりしている人間に見えた。  それゆえに、セリスは素朴に尋ねてしまった。  エスファンドはとても心外そうに肩をそびやかした。 「私か? 私とて生活の為にこうして働いている。働かされているんだ、あの真っ黒の帝王に! 私は本来詩歌を詠んでいればそれで満足だと言っているのに、黒鷲殿が『俺に知の領域における至高の書を捧げよ』などと言い出したからね……」  続けざまに、エスファンドは何か粗野な印象の言葉を早口に吐き出した。セリスの理解の外にある単語。そのままさらに言い募った。 「私が知の書物を編み、それが後世に伝わったとき、彼らは言うだろう。『この時代の人間にしてはよくも考えたものだ』と。それは学問の宿命だ。私が過去の書物に反論を加えるように、後の世の人間は私の書物に反論を加え検証し、しまいに踏み台にするのだ。しかし、こと芸術領域における詩歌ならば、なんとなく感性に訴えかけて『今も昔も人というのは変わらぬものだ』という曖昧な位置づけで、踏みつけられることなくうまくいけば数百年の長きに渡って生き延びられるだろう……。ああ、アルザイ様に目を付けられなければ」  くっと拳を握りしめたエスファンドを、呆気に取られて見ていたセリスであったが、ついにはふきだしてしまった。 「そんな悔しそうな顔をしなくても……。アルザイ様はさすがですね。あなたのような人を逃がさないで繋ぎ止めておけるなんて」 「私とて人の身だ。生きる為の妥協くらいはする」  ふてくされた様子で言うエスファンドに、セリスは笑いが止まらなくなる。  少しの間しかめっ面を維持していたエスファンドも、つられたように笑みをこぼした。  この日より、セリスは寝食を忘れて仕事に取り組む日々が始まった。  そのめまぐるしさは想像を絶していて──セリス自身驚くほどに、その他のことを頭の中から押しやる効果があった。  それは、この地に着くまでは全存在をかけて悩み抜いた、月の国存亡のこと。まずは目の前の知識を吸収することで、打開策を考えようと肚が決まる。  そして、ラムウィンドスのことさえも。  しかし、一時期どこかに押しやったとしても、悩みそのものが消えるわけではないということを、やがて思い知ることになるのであった。
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