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「私はこの街で獣医をしている河埜 大地という者です。何の心配もいらないから、今夜は私の家に泊まっていきなさい」
優しい言葉が胸に染みた。
でも、いきなりそんなことを言われても素直について行くことは出来ない。
だって私はどう見ても二十歳そこそこの女性なのだ。
万が一、何かあったら困るのは自分だからだ。
私は上目遣いにもう一度、河埜と名乗る男性の顔をちらりと見遣った。
穏やかでいて優しそうな顔と涼しげな瞳。
ほんとうに誰かに似ている。
男性は自分を観察しているような私の視線に気付くと、にこりと微笑んでくれた。
その笑顔を見ると郷愁にも似た何かが胸の中に甦ってきそうだった。
ここまでを見る限り、紳士然とした立居振舞いは信用しても良さそうな感じがした。
「大丈夫ですよ。不安な気持ちはよく分かるが、私を信じてもらいたい」
心の中を読みとったのか、男性は私の手を優しく掴み、ゆっくり立ち上がった。
冷えきっていた手に暖かさが戻ってくる。と、同時に安らぎのようなものも感じとることが出来た。
そのとき、私の頭の中にこれと似た光景がフラッシュバックのように甦った。
それは掴まれた手をそっと握り返している記憶の断片だった。
ー この人について行こう。何かが分かるかも知れない。
何かを思い出せるかも知れない。
記憶がない私は藁にも縋る思いで心を決めて頷き、そっとベンチから立ち上がった。
男性は安堵したように小さく頷くと、英国紳士のように私の手を取ったまま助手席のドアを開き、車に乗せてくれた。
彼、大地さんが言うには、私の座っていた場所は市の中心部へと向かうバス停のベンチだったそうだ。
只、一時間に一本しかないバスは既に終わっていて、往診の帰り道で私を見つけた彼は、この雨の中、バスに乗り損なったのかと不憫に思い声を掛けてくれたのだ。
私は大地さんの話を黙って聞いていた。
それは自分の名前さえ分からなかった私に、少しずつだが色々なことを思い出させてくれるような内容だったからだ。
ひとしきり大地さんの話を聞いたあと、頭の中にぼんやりとした記憶の欠片がひとつだけ甦ってきていた。
「ここは、美空市ですか?」
小さな声で呟いていた。
それを聞いた大地さんは私の記憶を混乱させないように配慮したのか、とてもゆっくりと、丁寧に尋ねてきた。
「ここが、美空市だということが分かるのかね」
「はい。何故、ここにいたのかは分からないのですが。美空市、美しい空の街だということはなんとなく覚えています」
「ほほぅ。どうしてここが美しい空の街だということを」
「それは美しい空と、とてもキレイな星空が見えるから。そう…随分前、誰かに教えてもらったような気がします」
目を閉じると瞼の裏側に美しい星空が浮かんできた。
澄んだ夜の空気の中、誰かが夜空を指差して私に星座の名を教えてくれている。
そして目の前には大きな四方形を形取る星々が輝いていた。
『あれは……っていう星座なんだよ』
遠くから微かな声が聞こえた。
ー あなたは、誰?
心の中で呟いた瞬間、その記憶はそこで途切れ、星空は暗闇の中にふっと消えていった。
「ふむ、そうだな。唐突だが、お嬢さんは今の日本の首相が誰だか分かるかね?」
大地さんの声で我に返った。
ひとつ深呼吸をして、もう一度目を閉じた。
不思議なことに、彼が尋ねてくる幾つかの日常的な質問にはすらすらと答えることが出来る。
どうやら私は自分以外のことはきちんと覚えているようだった。大地さんも安心したのか、それ以上の質問をしてくることはなかった。
車は街の中心部を抜け郊外へと向かっていた。
ヘッドライトが雨に濡れた路面を眩しく浮かび上げる。私の耳にはルーフを激しく叩く雨音だけが聞こえていた。
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