22人が本棚に入れています
本棚に追加
ひとつの記憶が甦ってきていた。
私は何度も助けを求めて通り過ぎる人に手を差し伸べた。
しかしその手はことごとく振り払われ、私は絶望の淵にいた。
そんなとき、誰かが私に手を差し伸べてくれたのだ。
振り払われる悲しさを知っていた私は、躊躇いながらもその手を掴んだのだ。
そして……。それからが思い出せなかった。
「どうしたの? 具合でも悪いのかな」
その声で我に返り、彼をそっと見上げた。
先ほどの素っ気無い態度とは違う、優しげな笑みを浮かべた彼が心配そうに私を見つめていた。
「あの……ごめんなさい。ご迷惑ですよね」
遠慮がちにそう呟いた。
ところが彼は軽く首を横に振り、玄関へと先に上がる。
「いや、ちっとも。我が家はこのテのことはしょっちゅうなんだ。さぁ、どうぞ上がって下さい」
その穏やかで暖かな微笑みに、ほっと胸を撫で下ろした私はずぶ濡れの靴を脱ぎ、彼の後を追いかけるようにして家の中へと入った。
廊下に濡れた足跡をつけながら。
バスルームに着くと、彼はふかふかの白いバスタオルを私に手渡してくれた。
「後で代替になるような着替えを持ってきます。安心してゆっくり浸かって下さい」
「あの……遙さん。あ、ありがとう」
明るいダウンライトの下で、その言葉に小さな笑みを浮かべて頷く彼は私より五、六歳年上の感じがした。
何の気後れもなく私の目を真っ直ぐに見てくれる。
ドアが静かに閉まったあと、びしょびしょの服を脱いだ私は暖かそうな湯が張ってある広いお風呂場のドアをそっと開いていた。
勢い良く出るシャワーの湯を浴びると生き返ったような気分になった。
冷たかった身体に温かさが戻り、思わず大きな吐息が出た。
背中まである長い髪をひとつに束ね、シャンプーを使い洗い流す。
柔らかな香りを胸いっぱいに吸い込むと、心の中がゆっくり和んでいくのが分かった。
少しだけゆとりが出て来た私は、曇っていた鏡を手で擦り自分の顔をそっと映してみた。
「これが、私……」
そこに映っていたのは艶のある美しい黒髪をした綺麗な大人の女性だった。
小さな顔に鳶色の大きな瞳。鼻筋も高く、形の良い唇はさくらんぼ色をしている。
「きれい」
私は鏡の中にいる自分の頬を指でなぞっていた。
そのとき、ドアの向こうからノックの音がし、「失礼。着替えを置いていきます」と、遙さんのくぐもった声が聞こえた。
タオルを使い身体の線を見られないように隠し、小さくすみませんと、返事をした。
間を置いてドアが開き、曇りガラスの向こうに彼の姿が映ったのだが、その姿は洗面台の上に着替えを置くとすぐに見えなくなった。
私はどきどきしながら火照りはじめていた身体をゆっくりと湯船に浸した。
洗面台の上に置かれていたぶかぶかのスウェットは陽だまりの匂いがした。
濡れたままの髪にバスタオルを巻いて廊下に出た私は、蛍光灯の灯りが洩れているリビングのドアを軽くノックして、ゆっくりと顔を覗かせた。
「暖まったかな?」
リビングに現れた私に気が付いた大地さんが声を掛けてくれた。
彼は濡れていた服を着替え、頭からタオルを被っていた。
何処の誰だか分からない自分に気を遣ってくれる彼の優しさに感謝した私は、深々と頭を下げた。
「先にお風呂を頂いてすみませんでした。ありがとうございます」
大地さんはうんうんと頷いた。
彼は一人掛けのソファから立ち上がると、私の感謝の気持ちを理解してくれたのか、満足気な笑みを浮かべた。
「それじゃあ私もシャワーを浴びてくるとしよう。お嬢さん、遙がコーヒーを煎れている。腰掛けてくつろいでいて下さい」
彼は私の肩をポンと叩くとバスルームへと向かっていった。
その後姿をリビングの入口で見ていた私に声が掛けられた。
最初のコメントを投稿しよう!