22人が本棚に入れています
本棚に追加
プラネタリウム 秋の章~「天空のぺガスス」
プロローグ
「さぁ、今日からここがキミの家だよ」
胸に抱きかかえている、不安げな彼女を安心させるように少年は優しく耳元で囁いた。
そっとドアが開くと、目の前には明るく居心地の良さそうな広いリビングがあった。
ふかふかのクッションにお陽さまの匂いが仄かに香るラグマット。
彼女はその匂いに誘われるように彼の腕をすり抜け、部屋の中央へと歩を進めた。
柔らかそうなソファを選んだ彼女は、そこにゆっくりと寝そべった。
クリーム色のソファは預けた体が適度に沈んでとても心地良い。
リビングの隅では暖炉が灯りぽかぽかと暖かく、冷たい雨が降りしきる寒い外とは別世界のようだった。
少しだけ安心した彼女は思わず大きな欠伸をして見せた。
それを見た少年は目尻を下げて微笑むと、キッチンからほんの少しだけ温めたミルクを持ってきた。
目の前にそれがコトリと置かれると、小さな手がそっと彼女の頭を撫でた。
「さぁ、遠慮しないで飲んで。きっと暖まるよ」
少年の優しげな瞳に見つめられながら、彼女はおずおずとそれを一口飲んだ。
とても美味しい。
生まれて初めて飲んだミルクと同じ味がした。
彼女は何だか嬉しくなり、少年に小さく微笑んだ。
彼は柔らかな笑みを返すと、又、彼女の頭や頬を愛しそうに撫でながら言った。
「今日からここがキミの家。キミの居る場所なんだ。いいかい? キミの帰って来る場所はここだからね」
少年の言葉に彼女は戸惑いながらも小さく頷いていた。
― ここは私の家。ここが私の帰る場所。
………………………………
陽が沈み、辺りは既に暗くなっていた。
どうしていいのか分からず、バス停のベンチに座り途方に暮れていると頬に何かが落ちてきた。
空を見上げると、どんよりとした鈍色の雲から雨の雫が斜めに降り始めてきていた。
まるで糸を引くように。
ー 時雨だといいけど。
その思いも虚しく、雨は次第に激しさを増して本降りになっていく。
この雨の中、右も左も分からない場所をさ迷い歩くのは危険だと思った私は、ずぶ濡れになりながらもベンチに座ったままでいた。
やがて辺りは暗闇に包まれ、時折行き交う車のヘッドライトだけが雨の糸を微かに照らしていた。
どのくらいの時間が経った頃だろうか。
バス停のベンチの前に一台の車が静かに停まった。
その車の助手席の窓がゆっくりと降りると、窓越しに誰かが話し掛けてきた。
だが、その声はアスファルトを叩く雨音に掻き消され、何を言っているのか殆ど聞こえてこない。
どうでもいいやと思っていた私は何も応えずに只、俯いたままでいた。
すると、肩を叩き続けていた雨がいきなり止んだかのように思え、ゆっくり顔を上げると目の前に初老に近い男性が傘を差して立っていた。
「ずぶ濡れじゃないか。風邪を引いてしまうよ」
男性は私の顔を見て優しげな笑みを見せた。
「何処まで行くのかな? 近くまでなら乗せて行きますよ」
その男性は顎に髭を蓄え、人の良さそうな顔をしていた。
穏やかな笑顔は誰かを彷彿とさせる。
でも、私にはそれが誰なのかを思い出すことは出来なかった。
只、その優しげな瞳の奥にある暖かな光を感じることが出来た私は、無意識のうちに口を開いていた。
「分からないの。ここが何処かも、何処に行きたいのかも。自分が誰なのかも」
雨音に掻き消されてしまいそうなか細い声が喉から出てきた。
自分の声を聞いたのは初めてだったような気もする。
それは少し高めのアルトだった。
男性はぴくりと眉を寄せると、私に暖かな言葉を掛けてくれた。
「そうか。一人で心細かっただろう」
男性はゆっくりと私の前にしゃがみ込むと、そっと濡れた髪をかき上げてくれた。
最初のコメントを投稿しよう!