1人が本棚に入れています
本棚に追加
「童貞三十年、おめでとう!」
突然、天井から声がした。
薄暗い部屋でベッドで横になりながら、だらしなくエロ動画を見ていた俺は、咄嗟に上を見た。
「い、いて!」
運動不足のせいなのか、突然の頭の動きに首の筋が悲鳴をあげる。
「わぁ、さすが三十年童貞、情けないね。」
声の主がどうやら正面にいるらしく、引きつった顔で頭を持ち上げる。
「なんだよ…お前。」
変な声が出た。というより久しぶりにしゃべったのだ。俺ってこんなしゃがれた声だった?
「私ね、私は案内人。アンナイニン、そのままでいいよ。」
案内人といったそいつは、人間の手のひらほどのサイズの…猫…、いや、猫のような鳥だ、背中に翼が生えている。
「あ、案内人…て、なんだよ。」
狼狽える俺を他所に、案内人は俺の周りを飛び回るとよく観察しているように、ふむふむと頷いている。
「間違いないよねぇ、木下武、今日で三十歳、そして、ここまで童貞!いやぁ、本当におめでとう!」
何なんだ、段々腹が立ってきた。確かに俺は童貞だ。でもそれは出会いがないからで…決して不細工ではない。
「うーん、やっぱり、不細工だねぇ。」
とどめを刺すように案内人は言った。ふざけるな。確かにちょっと目は小さい…口もちょっと前に出ている気がする…肉づきは…いいんだ、これはちょっとしたぽっちゃりだ。チャームポイントだと思っている。
「ていうか俺、誕生日か。」
スマートフォンを確認すると、十二時丁度を五分すぎた数字と、その下に自身の誕生日が並んでいる。勿論、誰からの連絡も来ていない。
「とりあえず…お前、なんだよ。」
腹が立ったり落ち込んだりと、感情が一周まわって落ち着いてきた。先程見ていたエロ動画のせいで半起ちになったそれを、隠すように枕を抱えて胡座をかく。
「私はね、妖精になる人の案内人。」
「妖精?」
「そう!三十歳まで童貞を守り続けてくれた武くんは、今日から妖精として生きていけるんだよ。」
猫も笑わないとは限らない…などと、大学の時読まされた名文が浮かぶ。案内人は笑顔を輝かせて俺に身体を擦り寄せた。
「人の役にたち、生きていけるんだ。」
「人の…。」
「そう、どう?今までどうせろくな人生じゃなかったんでしょ?」
「なっ…!」
そんなことは無い、と続くはずの言葉が喉でとまった。確かに俺は中学、高校と友達ゼロ、もはや虐めてくれる人間もゼロで過ごし、大学は三度浪人、その後バイトを点々とし、親からは突然百万円を渡されると見放され、今は日雇いで工場を転々としながら働いている。
「…まぁ、そうだけどさ。」
「ほらぁほらほらぁ!」
猫の笑顔はウザイらしい。案内人は天井近くまで飛ぶと、窓から外を見た。
「すぐに仕事をしてもらいたいな。まぁ、やればわかるよ、いいね?」
俺が何か言おうと口を開くと、目の前の景色が変わった。明るい、朝だ、いや、昼か?暗闇からの明かりに目が慣れないでいたが、何度か瞬きをすると、自分がどこかの学校の廊下にいることがわかった。
「え、なに、」
口を開いてさらに驚いた。なんだこの綺麗な声は。俺か?俺だよなおい。さらに下を見るとどうもスカートを履いている。おいおい、足がめちゃくちゃ美しい。
「あの子を見て。」
声がして振り向くと、頭のすぐ後ろに案内人がいた。
「あの彼女、地味な子、愛実ちゃん、クラスの人気もの佐野くんが好きなんだよね。佐野くんはあの窓際で皆の中心なって笑ってるイケメン。あの二人、多分両想いなんだけど…なかなかきっかけがないみたいでさ。あの二人を応援して。」
「え!?」
そんなこと、突然言われても困る。無理だ、無理。まず俺は恋愛なんてしたことないし、それに…女子としゃべったことすらない。いや、小学校以来だ。
わかりやすく慌てる俺に、案内人は微笑んだ。
「だいじょーぶ!今の武くんは、なんでも出来るんだよ。それに思い出して。恋愛ならたくさんクリアしてきたでしょ、ゲームで。」
ゲーム…。ああ、ゲーム。確かに、してきた。でもあれは女の子を落とすものだ。恋のキューピットゲームではない。女の子、女の子…女の子…
悩んでいると、ふと硝子に映る自分が見えた。
「なんっじゃ、こりゃ。」
びびった。めっちゃくちゃ美人だ。これはどんな男でも惚れちまう…
「そうか。」
俺は美しい声でそういうと、男子の輪の中に入っていく。
「おっはよぉ。」俺の一言で男共が目を輝かせる、馬鹿だな…男ってのは本当に愚かだ。残念ながら俺は三十歳のおっさんだぞ。
「おはよ…あれ、麗華!麗華か、あ?なんか変だな、麗華、昨日もいたよな?」
一人の男が不思議そうにそう言った。
なるほどな、俺はこのキューピット限定でその次元に現れる…つまり隠しキャラみたいなもんか!いいな、面白い!
「何言ってんのぉ。」
俺は適当にボディタッチをしてその場を盛り上げる。
佐野との距離が近くなった時、俺は突然佐野に抱きついた。
「お、おい、なんだよ、麗華。」
満更でも無さそうだが…、かなり困ったように佐野が振り払う。今だ。
「いーじゃん!こんな美人振り払うとか最低!クソ男!ビンタさせろ!」
「お、おい麗華…。」
周りの男が慌てる。そらそうだ、自分でもとんでもない女だと思う。
「意味わかんねぇ…。」
不機嫌になった佐野にさらに追い打ちをかける。
「え?なに?あそこにいるあの地味子とかの方が好みだったぁ?」
自分で言っててなんだが、腹ただしい。
「ていうか美人怒らせといて、ビンタもさせてくんないの?じゃあ地味子叩いちゃおっかな!」
そのまま美しい足を使って、つかつかと愛実ちゃんのもとへ歩くと目の前に立ちはだかる。うん、愛実ちゃん、なかなか可愛い、俺は好きだぞ、こういう子。
叩くふりで手を高くあげると、後ろから佐野の声が追ってくる。そうそう、そうこなくちゃ…困る。
「おいてめえ麗華、ちょうしのんな!」
「はぁ?この地味な…地味で!ブスで!…えーと、キモくて!ダサい!この女のこと叩く事のなにがいけないのぉ!?」
ごめん、愛実ちゃん、そんなこと思ってないぞ。
「ふざけんな…愛実はブスじゃねーだろ。」
ああ、怒り心頭。佐野くん、このままいっちゃってくれ。俺は、愛実ちゃんの両ほっぺたを片手で掴むと愛実ちゃんを見下ろした。
柔らかくて、気持ちがいい!
「いやいやぁ、ブスでしょ、どーみても。クラスで一番。それとも何?あんたこの子好きなの?」
「ああ、そうだよわりぃかよ、手、離せ。」
やったー!偉いぞ佐野!
そう心の中でガッツポーズを決めた瞬間、俺は俺の部屋にいた。
「え?」
「お疲れ様ぁー!いや、さすが童貞の妖精!」
「え?」頭がついてこない。夢?
「あ、夢じゃないよ、大丈夫、麗華は消えたけど、あの後二人はうまくいったから。」
案内人は嬉しそうに喉を鳴らしている。
「いやいや、なんで!?俺もうずっと麗華になれるのかと…。」
「そんなわけないじゃん。」
なんだ、そうなのか。ちょっとショックだ。
それに…
「最後まで見たかったよ。あの二人のハッピーエンド。」
愛実ちゃんは本当に幸せになれたのだろうか。
「あらら、本当?ごめんごめん、初回だからすぐ連れて戻ってきちゃった。次回からは結果さえ出せば自分のタイミングで戻れるよ。」
案内人はそういうと、人差し指…いや、猫指を立てて俺を見た。
「こんな風に妖精は二人の間のキューピットとして現れる。二人を無事ハッピーエンドに持って行けたら終わり。」
「へぇ…!」
思わず感心するような声が出た。なんだか、いいじゃないか、漫画の主人公みたいだ。
「ただし。」
案内人はぐっと顔を近づけると、脅すように声のトーンを落とした。
「恋愛をしてしまったら、もう妖精にはなれないよ。」
「え?」
よく分からないような顔をした俺に、案内人はため息をついて腕を組んだ。いちいち腹ただしい。
「つまりぃ、繋げるはずの人間を好きになったり、逆になられたり!その繋がりを駄目にしたらもう妖精にはなれないよ。」
「はぁ。」
「はぁ、って!」
怒ったような顔の案内人に俺は首を傾げる。
そんなことを言われても、きっとそんなことは起きない。だって、俺だ、そう、俺。愛実ちゃんのことも可愛いし素敵だとは思ったが…、つまり童貞なのだ。
好き!よりも先に、触りたい!見たい!と脳が叫んでしまう。そんな、中学一年生みたいな俺が、恋まで進めるわけが無いのだ。
「大丈夫だろ。」
「まぁいっか。」
どうやら案内人は一年間、俺のそばに付いていてくれるらしい。それで一人前と認められれば晴れて俺は童貞妖精となる。なんだ、童貞妖精って。
その後も俺はスムーズに妖精としての職務を進めた。慣れてくると、仮の身体に入った途端、ターゲット二人がわかる。なんなら、ちょっと感情も読み取れる…気がする。
というか、向いているのかもしれない!
どんな仕事をしても上手くいかなかったこの俺が、めちゃくちゃ成果を出してる。しかも、楽しい。
人の役に立つのなんて、初めてだ。
「あ、行くよ。」
案内人が空を見て言った。いつもこう突然なのだ。まぁ、仕方ない、ヒーローに自由はないのだ。
「ああ…いいぜ…!」
俺はそれっぽく応えると目を瞑る。いや、瞑る必要など無いのだが、とりあえず瞑ると変身するヒーローにでもなった気がして気分がいい。
「今回はぁ…女の子か。」
自身の足元を確認して、手のひらを見る。二十代女性ってところだ。
で、ターゲットは公園のベンチに座る女性。
俺と同じ制服…同期か、ハーフアップの髪の毛、シンプルな化粧、手作りの弁当…うんうん、今回も良い子そうだ。
男は…、喫煙所で煙草吸ってる野郎か、やっぱりイケメンだな。俺のポケットには…煙草か…、とりあえず行くか。
俺は喫煙所に向かうと、声をかける。
「よ、お疲れ!道永先輩」
俺の声掛けに声も発さず手を挙げて応える、クールな野郎だな。
「今日も菜々子ちゃん自作のお弁当食べてますよぉ、私飯なんか作れないからあーいうのできないんですよねぇ。」
「え?菜々子ちゃん…ああ、エラいよねあの子。父親の借金返すからって節約頑張ってるよね。」
ほーう、ほうほう。なるほどな、それで、その頑張ってる菜々子ちゃんが気になる…けど、一歩踏み出せない道永先輩と、借金返済と節約で忙しいし、自分に自信がない菜々子ちゃんって所だな。
こういうのはストレートが一番だ。
「誰かが支えてあげたりなんかしたらいいんだろうけどぉ…あ、あの子、いっつも道永先輩のこと見てますよね!」
「え!?」
きたきた。驚け、そして喜べ!
「うん、なんかぁいーっつもちらちら見てるんですよ、本当は好きだったりして。」
「いや、俺を?ないな、ああいう子はやっぱりもっとこうリードできる男性って言うかさ、そういう人じゃないと。」
意外と自己肯定感の低いやつらしい。大丈夫か?痩せっぽちだし、頼りねーなぁ。
「ふーん、道永先輩とご飯とか行けたらなぁって…さっき独り言言ってた気がしたけど…。」
「え?ええ!?ほんと?ほんとにほんと?いや、嘘だな。なに?えーと、松田さん…だよね?なんか俺したっけ?それとも頼み事!?」
こいつ、なかなか面倒だな、まだ疑うのか?
「ううーん、ま、ホントのこと言っただけでーす。」
俺はロングヘアを靡かせ、喫煙所を出る。
休憩時間は終わったようなのでオフィスに戻る。もちろん、俺の席は可愛い可愛い菜々子ちゃんの隣だ。
パソコン業務なんて全くできるわけが無いのだが、便利なことに手がすらすらと動いていく。
こういうのも妖精の楽しさの一つである。
「菜々子ちゃん。」
「ん?」
隣でパソコンを睨みながら菜々子ちゃんが返事をする。うーん、声も可愛い。
「さっきさぁ、道永先輩に菜々子ちゃんの好きなタイプすんごーいしつこく聞かれちゃった。」
「え、ええ?なにそれ。」
菜々子ちゃんがこちらを見てクスリと笑う。
「ほんとほんと、しかも、恋人っているの?とか、菜々子ちゃん俺のこと嫌ったりしてないよね?とかさぁ、めっちゃうるさくてぇ。」
口をぽかんとあけて聞いていた菜々子ちゃんの頬が、ぐっと赤くなるのがわかった。そして微かに楽しそうに笑った。
「面白い嘘つくね。」
「ほーんーと!」
今度は嬉しそうに身体ごとこちらを向く。
「脈アリだと思う?」
おお!その意気だ菜々子ちゃん!
俺は女子特有のひそひそ声で話しかける。
「ありあり!いっちゃえ!」
菜々子ちゃんは口を結んで歯がゆく笑うと、姿勢を質してパソコンに向き直った。
「ご飯奢ってくださいって…甘えちゃおうかな。」
途端、全てがフリーズする。
つまりハッピーエンドが見えたのだ。
「さ、戻るか!」
案内人がひょっこり顔を出した。が、おれの心は晴れない…なんというかあの道永先輩とかいう男、心配なのだ。こんな親の借金のために頑張る女の子を、あんなひょろひょろが支えていけるのだろうか?
「もうちょいいてもいーだろ?」
「ええー!」案内人は大変ショックを受けたような顔をする。
「なんもしない!なんもしないから!」
俺が手を振ると、不安げな顔の案内人が俺を睨む。
「面倒なことしないでよね。」
その言葉に俺が親指を立てた途端、周りが動き出す。
「急にどうしたの…?」
突然親指をたてて空中を眺める俺に、菜々子ちゃんが声をかける。突然消えやがって…、俺は仕方なく、その親指で思い切りエンターキーを叩くしかなかった。
三日ほどたつと、休憩時間には道永先輩と菜々子ちゃんが二人で食事をするようになっていた。
だが、まだ何だか心配だ。
そしてそれから一週間後、俺の心配は的中する。
隣でパソコンを眺める菜々子ちゃんはどこか上の空だ。二日前まではあんなに幸せそうにしてたってのに。
「な、なんかあったぁ?」
俺は今、女子なのだ。そう、つまり、相談にのることができる!
菜々子ちゃんはこちらを向くと、あからさまに大きなため息をついた。
「聞いてくれる?」
「うん!うんうん!なんでも聞いちゃう!」
一度菜々子ちゃんは道永の席をちらりと確認すると、一気に話し始めた。
「道永先輩、なーんにもしてこない。未だに手も繋がない、デートもなし。話すのなんて仕事休憩の昼だけ!家に誘っても来ない、なんなら家の事情とかも聞いてこない!パンツ見せてみたんだけど反応なし!」
パンツゥ!?
つい、俺が反応しそうになる。大丈夫だ…今は女子なのだから。にしても、やっぱりな、あの男、そんなところだろうと思ったのだ。
というのも、俺と同じ匂いがしたのだ。
つまり、童貞だ。
適当に菜々子ちゃんの愚痴を聞いてあげると、少しすっきりしたようで菜々子ちゃんはパソコンに向き直った。
あの野郎…一言なんか言ってやる。
このままじゃ別れちまうぞ!
それから俺は三日ほど、仕事終わりの道永を待ち伏せし、菜々子ちゃんが寂しそうだの、男なんだから男らしく降るまえ!だの、とにかく奴を叱りつけた。
そして四日たったある日、ついに道永の足が止まった。
「ていうかさ、俺…菜々子ちゃんと釣り合わないし…。」
でた、でたでた!
「もう、だか…」
言葉を繋ごうとした俺の台詞を道永が塞ぐ。
「って思ってたんだけど、」「え?」
「この何日か、松田さんがすごく俺を駆り立ててくれてさ、なんか勇気もらえて…ありがとう。」
おお!やっとわかったか道永!
俺はやっと完成された二人の恋を思ってついガッツポーズをとる。
「それで、なんか自分の心が…松田さんと、一緒に過ごしてみたいって言ってるんだ!」
「え?」え?なんて?松田さん?
松田さんって誰だ、あ、俺か?え、俺!?
「い、いや、先輩、何言ってんの…」
「松田さんは本当に菜々子ちゃんのことも思ってて、俺のことも思ってくれる。」
道永が照れたような笑顔で話す。そりゃそうだ、妖精なんだから、それが仕事なんだから。
「俺は、松田さんと恋愛をしてみたい!そして、男として成長したい!」
「はいストーップ!」
突然案内人の声がその場で響き、気が付くと俺は自身の部屋に戻っていた。
「あ。」
「あ。じゃ、ないよー!もう!」
毛が逆だっている、かなり怒っているようだ。
「ごめん、こんな事になるなんてさ…。」
謝る俺に案内人は首を振ると、項垂れた。
「良い人材だと思ったのに…終わりだよ。」
その言葉に俺はハッとする。そうだ、二人の恋を割いてしまったら妖精には戻れなくなるのだ。そんなの嫌だ!やっと見つけた生きがいだ…なにより、菜々子ちゃん達が気になる…
「ごめんね、じゃあね、武くん、割と楽しかったよ。」
俺が何かを言う前に、なんと案内人は呆気なく消えてしまった。そして、次の朝目が覚めると俺の記憶も…
「消えないんかよ。」
残ってる、全部。え?良いのか?どんだけ童貞に信頼厚いんだ?いや、確かに言ったりはしないが…いや、そうだ、それよりも…「道永、菜々子ちゃん…!」
毎回場所を覚えていたわけではなかったが、あの二人の場所は覚えやすかった。秋葉原…俺たちオタクの住処である。
いつもの公園に行くと、すぐに菜々子ちゃんを見つけた。なんと、一人で弁当を食べている…おいおいなんてこった、これはまずいぞ。
俺はそろそろと近づいて菜々子ちゃんの隣に座った。
「あ、あの、道永先輩は、」「え?」
菜々子ちゃんの険しい顔を見て、俺はすぐに我に返った。そうだ、俺は今俺であって、松田さんでは無いのだ。つまり、ただの不審者になってしまう!
「あ、あー!いや、えっと、」
「もしかして、石丸さん?」
「ん?う、うん、そうです。」すまん、石丸。
「ああ、今日道永先輩仕事休みなんです。」
「あ、あー、そうでしたか…はは。」
よく分からんが、石丸のおかげで助かった。重要な人物とかじゃなければ良いが。
「あ、えっと、最近道永先…道永とはどう?う、うまくいってる?」
俺の質問に、一瞬菜々子ちゃんの眉が困ったように下がる。まずい、これは聞き方が悪かったか…
「もう!うまくいってるも何も、一昨日結婚届けの証人欄、石丸さんが書いてくれたって聞きましたよ!」
「あー!」え?結婚届け?
この短期間で?困惑する俺の頭をどうにかフル回転させながら、話を深く探っていく。
「だ、出せたんだ。」
「はい…、早すぎですよね。」
「ほ、ほんとだよぉ、あいつらしくない…というか、えー、びっくりしたよぉ。」
菜々子ちゃんは持っていた弁当の蓋を閉めると、俺の顔を見て微笑んだ。
「なんか、突然勇気がわいてきたから、君を嫁にしたい!だなんて言って…、借金も全部返してくれたんです。これからは俺が守るから!って、あの人手汗びっしょりで!」
その話を聞きながら、俺は肩の力が抜けていくのを感じていた。なんだ、道永、やるじゃねーか。
「いやほんと、おめでとう、あ、じゃあ、」
怪しい話の切り替えで立ち上がった俺に、菜々子の細い手がふれる。
「石丸さん?」「はい?」
振り返ると、不思議そうな顔をした菜々子ちゃんがまっすぐこちらをみていた。
「なんか…前に…会ったことあるような…」
「き、気のせいだね。」
なんだ?何かまずかったか?
「なんか、道永先輩、誰かに励まされた気がしたって言ってたんです。きっと、…きっとあなたですよね。ありがとう。」
「え?」ぽかんと情けない顔をした俺を残して、菜々子ちゃんは立ち上がると、ゆっくり歩き出した。
いや、ともかくよかった…、二人はきちんと上手くいったのだ、俺は妖精の仕事をクビになったが、きちんとやり切ったのである。
いや、やっぱり…人の役に立つのは気持ちがいい。
それから三年後、妖精の仕事を無くした俺は、三十三歳童貞となっていた。だがしかし、驚くことに、とんでもないモテ期もやってきたのだ。
「武くん、おはよぉ、あんらぁ、今日もすてきねぇ。」
「相川さん、おはよ。相川さんもだよ。」
「ちょぉっと、武くんは今日わぁたしのところでしょ!」
「あー、本藤さん、今日はねぇ、違うんだよ、でも顔見にちらちらくるからさ。」
「ちょっとぉ!本藤さん!」
「なによぉ、相川さん!」
まぁこんな調子で本日も二人の女子に挟まれてのスタートだ。ちなみに、本藤さん八十六歳、相川さん、八十八歳。
俺は派遣工場での仕事を辞めて、近くの介護施設で働き始めていた。初めはなかなか慣れずに泣くこともあったが、今は楽しくやっている。
なにより、頼りにされることが嬉しいのだ。
実家にもやっとやりたい事が見つかったという報告をすると、なんと母は泣いて喜んでくれた。
「あとは…結婚だけだねぇ!」
まぁ、それは難しい気もするが…悪いな、母ちゃん。なんせこの顔だ、認めるさ、俺は不細工なんだ。これじゃ女の子はときめかない。
…だが、今、俺は密かに恋をしている。
俺より二つ年下のスタッフ、沙友理ちゃんだ。見たい!触りたい!なんて汚い感情ではない、これは純粋なる恋心だ、俺にはわかる。
が、もちろん、諦めている。俺じゃ無理だ。ただ、たまに休憩が被って喋ったり…それだけで充分幸せなのだ。
「童貞三十年、おめでとう!」
ふとあの声が頭によぎる。懐かしい、もう三年前か…「木下くん、休憩どうぞ。」「あ、はい!」
いかんいかん、ぼんやりしていた、もうそんな時間か。
俺はいつも通り外に出て、お気に入りのベンチに座ると、風を感じながらコンビニの弁当を広げる。この時間も好きなんだよな…なんていうか頑張ってるなぁ俺、としみじみ思う。
「よぉ、おつかれぇ。」
「ん、ああ、おつ。」
突然声をかけられ、変な返答をしてしまう。おつってなんだ、おつって。ていうか、この人誰だ?あ、中野さんか、中野さんって昨日までいたっけ?いやいやいたよな、何考えてんだ俺。失礼だぞ。
美しい髪を靡かせ、中野さんは足を組むと、ぐっと姿勢を低くして声を落とした。
「ねぇねぇ、沙友理ちゃんってさ、武くんのこと気になってるみたいだよ!」
最初のコメントを投稿しよう!