1.何かがあると信じた男

4/7
前へ
/7ページ
次へ
 テレビ局が募集している賞だったので、それは映像化されることになり、評価もそれなりによかったので、私は見事に脚本家になることができ、社会に混じることができたのだ。  驚いたのは私よりも家族だった。  それまで一度も創作などという類に興味を示さなかった私がある時急に脚本家を目指しだし、気づけば賞を獲得して映像化までされたのだ。深夜の枠ではあったが、息子の創ったものが公然とテレビから流れるというのは何とも奇妙な感覚らしく、どう反応していいのかわからなかったらしい。不安定な仕事なのではと不安を口にはしていたが、テレビの力は偉大で、断固反対という立場も取れなかったようだった。捜索行というモノに無知だったゆえに、否定の仕方もわからなかったのだろう。  私といえば、達成感や喜びよりもむしろ安心感の方が強かった。駆けた労力に対してむくいがなければ、いよいよもって何をしていいのかわからなくなる。どんな仕事も選ぶことすらできなかっただろう。漠然とバイトだけして過ごす人生になっていたのかもしれない。  そうして私は、脚本家として生きることになったのだ。  そこからはある意味で、私には安定した生活だった。  金銭的な意味ではなく、何をしていいのかわかっていると言うのが私を安心させた。兎にも角にも脚本を書き続けた。求められることにはなんでも応えたし、テレビだけでなく、映画やラジオ、アニメ、舞台と脚本が必要な媒体は全て受けたし申し込んだ。  私は客にとって依頼しやすい相手だったかもしれない。  他の脚本家にいる、自らの表現したい事柄もなければ、納期に遅れることもない。突拍子のないこともしないし、条件に文句をつけるわけでもない。  私はただ、社会に必要とされる人間でいたかった。裕福になりたいと思わなければ、権威が欲しいわけでもない。表現したいこともなかった。ただひたすらに仕事として、脚本を望まれるように書き続けた。  結果として、それが良くなかった。  脚本家と名乗るようになり十年ほどたった頃、それなりの知名度を持つようになった私はある仕事を受けた。とある劇団の舞台用の脚本で、オリジナルではなく古典戯曲である。  私が仕事を選ばないことも知られていたのだろう。報酬をほぼ依頼者の言い値で受けることも有名だった。その劇団はまだ立ち上げたばかりの無名の劇団で、なんとか客を集めたくて私に依頼してきたのだ。  報酬は微々たるものだった。劇団の代表は申し訳なさそうな顔をして私に額を提示した。他の脚本家ならば決して受けなかっただろう。それほどプロの相場ではありえない額だった。そのことも内緒にしてほしそうだった。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加