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二、予兆
翌日の部活の合間にも、俺はわざわざ校舎内のトイレに用を足しに行った(今日は“小”のほうだ)。
昨日と同じようにレッスン室の前を通る。かすかなピアノの音が聴こえてきた。
今日もあいつがいた。
細い窓の前を通り過ぎる、ほんの数歩のあいだ。俺はピアノの音を聴く。そしてそれを弾くあいつの顔を見る。
聴こえてくるのは昨日とはまるで違う静かなメロディーだった。クラシックだろうか。きれいで、少し切ない感じのする曲だ。目を伏せたあいつの無表情な顔と、鍵盤に広げた長い指が見えた。
窓の前を通りすぎて、俺はゆっくり立ち止まった。
あいつから見えないように気をつけながら壁に背中をもたせかける。壁づたいにはっきりとピアノの音が聴こえる気がした。
いいなあ。何ていう曲だろう。
俺はしばらく目を閉じて、聴こえてくる音に耳を澄ませた。
◆
グラウンドに戻るとボールポゼッションの練習がはじまっていた。3対1の鳥かご。「遅ぇよ」と石崎に怒られながら俺はひとりでディフェンスになる。オフェンスの3人から時間内にボールを奪えたら俺の勝ち。
俺は部内では、ド下手ではないが上手い部類でもない。サッカー部自体、強豪でも有名でもない。県大会でベスト8に入ったら万々歳。だから楽しくほどほどにやれたらいいと思っていた。
でも――なぜだろう、いつもはほとんどボールを奪えないのに、今日はオフェンスの3人の動きがやけにゆっくりに感じる。頭のなかではさっき聴いたピアノの音がずっと鳴っていた。集中できているのか? 俺がいつもとは違うキレのいい動きをするから、みんながあっけにとられている。
練習が終わったあと、ロッカー室で着替えながらさっそく石崎が声を掛けてきた。
「日野、なんか調子よくねえ? 何かやってんの?」
「何かって、何だよ」
「今日もわざわざ校舎のトイレに行ってなかった?」
「あっちのトイレは人がいねえから、ゆっくり座ってられるんだよ」
「ふーん。抜きに行ってスッキリしてるんだと思った」
ニヤニヤ笑う石崎の腹にパンチを入れてロッカー室を出た。いつもなら気にならない下世話な話に腹が立つ。ピアノを弾くあいつのきれいな顔が思い浮かんだ。頭のなかではピアノの音がずっと鳴り続けている。
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