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三、初恋
次の日の放課後、石崎やサッカー部のやつら数人と教室を出たとき、俺はドキッとした。
――あいつだ。
レッスン室でピアノを弾いていた男子生徒。あいつがひとりでこちらに向かって歩いてくる。このフロアを歩いているということは、同じ一年だったのか。思った以上に背が高くて肩幅がある。うつむきがちに、両手を制服のズボンのポケットに突っ込んで歩いてきた。もちろん俺のことなど見ていない。ドキドキしているのは俺だけだ。
彼とすれ違う瞬間、ギャーギャーと騒いでいた石崎がふいに俺の脇腹をいじってきた。俺も笑いながら石崎の腕を振り払おうとして身体を大きくよじった。そして勢いあまって体勢を崩し――その男子生徒に派手にぶつかってしまった。
「す、すまん。大丈夫?」
俺はすぐに男子生徒に謝った。彼は二、三歩よろめいて、心の底から迷惑だという目つきで俺をにらみつける。鋭く、敵意に満ちた目。俺がその厳しさにひるんでいる間に、彼は無言でさっさと歩いていく。その背中を見ながら石崎が口をとがらせた。ほかのやつらも悪態をつく。
「何だよあいつ」
「一組の久岡蒼太だろ。感じ悪いよな。ちょっと女子にモテてるのが理解できん」
「ピアノが上手いらしいよ。動画も上げてるって」
「マジかよ」
「アカ名なんだったかな、確か――」
「動画、ちょっと見たことあるけど、何がいいのかわかんなかったな」
久岡蒼太っていうのか。
俺は頭の中にその名前を刻みつける。もちろんアカウント名も一緒に。
◆
その夜、家に帰ってから、俺は久岡が上げているという動画をスマホのサイトで検索して探し当てた。チャンネル登録数も、いいねの数も、素人とは思えないレベルの高評価だ。熱心なファンがついているらしい。
【これは】高校生ピアニストsota.の超絶技巧【まさに神】
俺はワイヤレスイヤホンを耳に入れて、動画の一つを再生した。
薄闇の中でスポットライトを浴びて、ピアノに向かう久岡の顔が映る。どこで撮った動画だろう。拍手やざわめきが聞こえるからバーとかライブハウスのような場所だろうか。黒いシャツを着た久岡はとても大人びて見える。演奏はすぐに始まった。静かな……なんというか和風なメロディーだ。画面上に曲名が出た。
島崎藤村「初恋」より 作曲 sota.
こいつ、作曲もするのか。透きとおるような、少し悲しげな雰囲気の曲だった。途中で何度も同じメロディーが繰り返されるのに気づく。聞き覚えのあるメロディーだった。
これは昨日、久岡がレッスン室で弾いていた曲だ。
曲は少しずつ盛り上がっていって、クライマックスはまさに超絶技巧の連続だった。久岡の大きな手がハイスピードで鍵盤を叩く。画面からキラキラと光るガラス玉がこぼれ出てくるようだった。光る玉の音は、やがてすうっとひとつに集まっていって――暗闇に吸い込まれるように――静かに消えて、終わった。
俺はしばらく動けなかった。
「初恋」。
初めての恋は、こんなに切なくてきれいなのかな。俺にはよくわからなかった。それでも、初めて好きだと思った気持ちをそう呼ぶのなら、このときの気持ちは俺の初恋だったのかもしれない。
久岡の演奏をもっと近くで聴きたいと思ったのだ。
できることなら俺ひとりで聴きたい。
あいつの音が聴きたい。あいつのことがもっと知りたい。
そう思ったら、いてもたってもいられなくなった。
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