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終章、人こひ初めしはじめなり
次の日、俺は部活を休んだ。石崎たちにさんざん理由を聞かれたが無視して、ひとりでレッスン室に向かう。
久岡は今日もピアノを弾いていた。俺ははめ殺しの窓にべたりと額をつけて、コンコン、とガラス窓を叩いた。久岡が驚いて顔をあげる。そして「何だよ」と迷惑そうな顔をした。
俺はひるまない。「い・れ・て・よ」と、大きく口を開けて言いながらドアを指さした。久岡は、いかにも「しぶしぶ」といった雰囲気で立ちあがって防音扉を開けてくれた。俺はすかさず自己紹介する。
「突然ごめん。俺、三組の日野っていうんだけど」
「知ってる。サッカー部だろ。ここんとこ、窓からチラチラ見えてたから、何してるのかと思ってた」
「動画見たんだ。久岡……くんのピアノ、いいよな。もっと聴きたくて、来ちゃった」
久岡が息を呑み、伏せた目を泳がせて「久岡でいいよ」と小声で言う。照れてるのか。俺はちょっと嬉しくなった。まるっきり嫌なやつ、というわけでもないと思ったからだ。
「サッカー部がこんなところにいると、陰キャ認定されるよ」
「そんなことないと思うし、俺、そんなの気にしねぇし」
「……」
口ごもった久岡の顔が、はっきりと赤くなるのがわかった。俺はさらに嬉しくなる。
「『初恋』っていう曲、すごく良いな。しまざきふじむらの」
久岡がポカンとした顔で俺を見て、それからふいっと顔を背けた。腕で口を覆って笑いをかみ殺しているらしい。
「お笑いコンビの名前みたいだな。しまざき、ふじむら。……ぶっ、ふふっ」
「えっ」
「島崎藤村。国語で習っただろ。有名な詩人だよ」
今度は俺が赤くなる番だった。久岡はとうとう声をあげて笑い出す。笑いながら「ごめん」って言われてもなあ。久岡はひとしきり笑ったあと、目尻の涙をぬぐった。そして鞄から一枚のコピー用紙を取り出して見せてくれる。そこには一篇の詩が印刷されていた。
「島崎藤村の『初恋』っていう詩に曲をつけたんだ。ピアノ曲だから歌詞は乗らないけど、歌おうと思えば歌えるよ」
そういってピアノを弾き始めた。動画で聴いた曲。俺はピアノのそばに立って耳を傾けた。やがてあのメロディーがやってくる。繰り返される、キラキラ光るガラス玉みたいな、切ないメロディー。
「なあ、このメロディーは、この詩の、どこ?」
俺は思わず久岡に尋ねる。久岡はピアノを弾きながら小さな声で口ずさんだ。
――人こひ初めしはじめなり。
島崎藤村のことも知らなかった俺だが、意味はなんとなくわかる。猛烈に恥ずかしくて顔が赤くなってしまう。
――初めて人を好きになりました。
久岡は静かにピアノを弾き終えた。俺が無言で固まっているせいだろう、チラリと上目遣いの視線を寄越してくる。そして赤面した俺をみてギョッとした顔になる。
「な、何だよ。そんなに変な曲だったかな」
「違う、違うんだ。……すげー、好きだな、って思って」
「好き……っ?」
結局、久岡まで真っ赤になってしまって、俺たちはふたりで黙り込んでしまった。
俺は久岡が弾くピアノが好きだ。こいつが作った曲も好きだ。しかし、だからといって久岡自身のことが好きということにはならないはずだ。でも久岡のリアクションを見ていたらよくわからなくなってくる。
だって初めてのことだから。
こんなに好きだなって思ったの、初めてのことだったから。
<完>
参考文献:島崎藤村「藤村詩集」新潮文庫、新潮社/初版発行日:1968(昭和43)年2月10日
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