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一、腹痛
あの時、部活の最中に腹が痛くならなかったら、俺は今もあいつのことを知らないままだったと思う。
四月の末、暑くも寒くもなく、練習にはいい季節だ。しかしウォームアップでグラウンドを走りはじめて間もなく、俺は急な腹痛に襲われてその場にしゃがみこんでしまった。腹からグルグルと妙な音がして、キリキリと痛む。
「だいじょうぶか、日野」
後ろから走ってきた石崎が心配してくれた。同じ一年で、中学のときからの友だちだ。
「おう、ちょっとトイレ行ってくる」
「腹が痛いのか」
「うん。消化不良かな」
走りから離脱する俺を他の部員たちがひやかしてくる。
「何だよ日野、サボりかよ」
「うるせえ」
俺は痛みをこらえながら小声で言い返してグラウンド脇のトイレに駆け込んだ。しかし男子トイレの個室は無情にも「使用中」。オーマイガッ、俺の尻はもう限界だ。仕方なく校舎の中のトイレを目指して駆けだした。
◆
……はあっ、よかった。間に合った。午前中に買い食いしたコロッケパンと、一気飲みしたコーヒー牛乳が無謀だったかな。
洗った手をユニフォームの裾で拭きながら校舎を出ようとして、俺はどこからか音楽が聞こえてくるのに気づいた。この校舎には教材準備室や演習ルームしかないはずで、放課後だからほとんど人の気配がない。空耳だろうか。……いや、違う。
ものすごく早いテンポの、めちゃくちゃかっこいい音。
俺は思わず立ち止まって、音の出どころを探した。音は、すぐそこにある教室の中から聴こえていた。教室表示板には「レッスン室」とある。普通の教室と違って窓は細長く、小さい。部屋自体、他の教室よりずっと狭い。ドアも分厚くて頑丈そうだ。
音はそのドアの向こうから、かすかに漏れ聴こえてくるのだった。
俺は細長い窓から中を覗きこんだ。
狭い部屋いっぱいに押し込まれたような大きなピアノと、それを弾いている男子生徒の横顔が見える。
俺は、ピアノを弾くそいつに目が釘づけになってしまった。
分厚い壁やドアを突き破って聞こえてくるピアノの大音量。ジャズ? そいつの指が目にもとまらぬ速さで鍵盤の上を走り回って、このかっこいいメロディーを生み出している。
くっきりと高い鼻、伏せた目もと、額の真ん中で分けたサラサラの黒い髪。制服の白シャツに緩めたネクタイの首が細くて長い。めちゃくちゃ綺麗な顔をしている、とも思った。
そのとき。
ピアノを弾きながら、そいつがふっと顔をあげてこちらを見た。
はめ殺しの細い窓からぼーっと見とれていた俺は、バチッと目が合ってしまう。ハッとして窓から顔を離した。
そいつは「見てんじゃねえよ」とでもいうような迷惑そうな顔をしてこちらをにらみつけ、すぐに鍵盤に視線を戻してしまった。
俺も我に返ってレッスン室の前を離れた。だんだん急ぎ足になりながら廊下を歩いて、最後は全力で走って校舎の外に出た。
……なんだよ、びっくりするようなきれいな目ぇしやがって。
切れ長の、一重の涼しい目をしていた。グラウンドに戻った俺は、ドキドキしてしまった気持ちを認めてはいけない気がして、ひとりでやみくもに走り込みをした。
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