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日が落ち、精衛がそわそわしながら待っていると約束通り黒狼が姿を見せた。
「迎えに来たよ、行こう精衛」
黒狼に手を引かれて、精衛は村から離れて森へ入った。空には満月が浮かんでいる。木々の合間から差し込む月明りのおかげで森の中はぼんやりと明るかった。
「こういうのって、ちょっと悪いことをしているみたいでドキドキする」
「そこは俺と一緒にいるからドキドキするって言ってほしいところだな」
「何か言った?」
「いいや、なにも」
無邪気な精衛に黒狼は苦い笑いを浮かべた。
しばらく歩くと、水の音が聞こえてくる。瑞花の森には巨大な泉があるのだ。もはや湖と呼ぶべきだろう。海のように広い泉の対岸は靄がかかり霞んで見えた。
「もうすぐだ、もうすぐ光草の花が開く」
黒狼の声を合図にしたかのように、泉の周りで光の花が咲き始めた。一つ一つ、波打つように花が咲き、辺りに光の粒が舞い上がる。光草の花粉である。
満月の夜にだけ開花するこの花は、一晩しか咲くことができない。朝が来ると花は枯れ、実を結ぶ。結実した実は森の命を育む糧になるのだ。
「綺麗、まるで桃源郷ね。私、こんなに綺麗な景色を初めて見た」
「良かった。俺も初めて見た。一緒に見るのは精衛とが良かったんだ」
「本当に?」
そう笑いながらも、精衛は胸が高鳴るのを感じていた。一緒に見たかったのは、精衛も同じだ。
「本当だ。精衛、受け取ってほしいものがあるんだ」
「なに、贈り物? 黒狼からの贈り物なんて想像できない」
黒狼は真剣な眼差しで精衛を見つめると、懐から木彫りの櫛を取り出した。
「冬の間想いを込めて彫った。もしも応えてくれるなら、受け取ってくれ」
差し出された素朴な櫛を、精衛はじっと見つめた。櫛を贈る、それはこの村での求愛の証である。成人した男女の間では、櫛のやり取りで婚姻が成立していた。
「私たち、まだ十四じゃない」
「関係ない。他のやつらに先を越されたら嫌だから」
頬を赤く染めた黒狼が、自分をからかっているとは思えなかった。精衛は戸惑いながらもその櫛を受け取る。嬉しくてたまらない。
「嬉しい黒狼、大切にする」
「不器用だから、あんまり上手くできてないけど」
「ううん、とっても素敵な櫛だよ。どうしよう、夢かなぁ」
「夢じゃない。成人したら一緒になろう精衛、約束だ」
「うん、約束だよ」
二人だけの約束は、光り輝く森の中で静かに交わされた。
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