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放課後の挑戦者たち
金賞を受賞したのは、他校の一年生だった。
明暗法で描いたオレンジ色の眠り猫。
モチーフは退屈だし、構図はありきたりなのに、惹きつけられる深みがあった。
猫のヒゲの生え方や折り曲げた前足の毛艶、尖った耳の表情。
奇抜な色使いや、モチーフの特殊さに頼らない正統派の底力を感じさせる逸品なのは、あたしにさえわかった。
悔しかった。
あたしは美術室の固いスツール椅子に腰かけて、もう小一時間ほどはぼんやりしていた。
佳作にも入らなかったあたしの絵は、夕映えの穏やかな港へ漁船が帰港する場面を切り取った油絵で、朱色の波と茜色の空の対比、揺れて斜めに腹を見せている漁船の使い込まれた優美な船体、港で手をふる子供たちの遠い影を幾度も塗り重ねた絵具で表現してある。
潮の香りさえ甦ってきそうな傑作なのに、審査員は評価してくれなかった。
波の色合いがくどすぎたのか、構図があざとすぎたのか。
原因を探ってみても、今更どうしようもない。
コンクールは終わり、参加賞の薄っぺらいクリアファイルが配られただけだった。
あとは文化祭で活動報告として展示され、何人かの見物人に披露されたら、部室の倉庫にしまわれる。
卒業時に持ち帰るか、持ち帰られなかった作品は何年か保管された後、学校の焼却炉で処分される運命なのだ。
今日はもう帰ろ。
人気のない校舎。
遠くで吹奏楽部のパート練習が響いている。
もの悲しく感じるのは、自分が落ち込んでいるせいだろうか。
今日は帰って自棄酒、もとい自棄カルピスでも飲んでやる。
うーんと濃くして飲んでやるんだ。
そんな訳のわからない反抗心に燃えて、イーゼルに布を掛けようとしたとき、声が降ってきた。
「いい絵だな」
振り返ると、美術室の入口にジャージ姿の男子生徒が立っていた。
同じクラスの飯田くんだった。
タオルで顔の汗を拭いながら、眼を凝らすようにあたしの絵を見ている。
入っていいものかどうか、敷居をまたぐのを遠慮しているのがちょっとおかしい。
「入ってきていいよ」
「おう」
飯田くんはおずおずと美術室に足を踏み入れた。
「綺麗な色だな」
近づいて、しげしげと絵を見つめる。
「でも落選しちゃった」
水平線の上に浮かぶ漁船団や、漁港付近の家々の屋根の色まで飯田くんがつぶさにじっくりと鑑賞するので、なんだかくすぐったい気がしてくる。
「へえ」
と飯田くんは言った。
それから空に浮かぶ鳥の影を指して、カモメ? と無邪気に聞いてきた。
「俺は好きだな、この絵。懐かしい気がする」
しばらくして、飯田くんは感想をのべた。
「俺のじいちゃん、島根で漁師やっててさ。こんな風に毎日港に帰ってくるんだろうな」
飯田くんは絵と同じ色に染まった夕焼け空を見上げながら言った。
「いい絵だと思う、わかんないけど」
飯田くんは最後にもう一度褒めてくれ、じゃあな、と美術室を出て行った。
「あ、ありがとう」
あたしはそう呟くので精一杯だった。
ふだん、ほとんど接点もない飯田くんが絵に興味を持っている事にも、あたしの絵を懐かしいと褒めてくれたことにも、ただただ驚いていた。
単純に嬉しかった。
飯田くんは陸上部だ。
種目は走り高跳び。
短距離走のように体育祭で注目されることも、長距離走のようにマラソン大会で注目されることもないから、あたしは今まで走り高跳びという競技についてほとんど何も知らずに過ごしてきた。
グラウンドの片隅にウレタンのマットを敷いて、飯田くんは毎日練習している。
たった一人で。
助走から踏み込んだ足が地面を蹴り、のびやかに体を反らせて軽々とバーを越える。浮き上がる瞬間、重力は消え、飯田くんはなめらかな残像を残してバーの向こう側へ吸い込まれてゆく。
滞空時間は意外と長い。
あたしはなんとか飯田くんの体が描く流線形の軌道を画用紙に写し取ろうと躍起になる。
「ねえ、一時停止してよ」
「無茶言うなよ」
困った顔で怒鳴り返してくる飯田くん。
でも帰れとは言わない。
来年、あたしは人物画で金賞を狙っている。
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