春の贈り物

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 ぼくがその団地に引っ越してきたのは、保育園を卒園して、もうすぐ小学生になるという春休みのことだった。四月から、母の仕事場が変わるので、それに合わせての引っ越しだった。物心ついた時から母と二人だった僕は、父というものをまったく知らなかったが、それで寂しいという気持ちになったことも無く、母に愛されて人並みに育っていたと思う。とりたてて良いところも悪いところもない、春生まれだから春彦と名前をつけられた、ごくふつうの子供だった。  団地にはじめて足を踏み入れたときのことは、よく覚えている。真四角な灰色の建物がたくさん並んでいて、まるでおもちゃのブロックの世界に迷い込んだようだった。そのころ、ジャックと豆の木の物語がとくにお気に入りだった僕は、それらの建物を見上げながら、もしも巨人がその太い指で、一番はしっこの建物を押したなら、ドミノ倒しが起きて、すべての建物がばたばたと倒れていってしまうだろうなと、ぼんやり想像したものだ。棟はどれも四階建てで、数えながら歩いてみたら、ぜんぶで四十四棟あり、どの棟にも、四角い窓と白くペンキを塗られた柵とが規則正しく、無数に配置されていた。窓に色とりどりのカーテンがかかっていたり、バルコニーに洗濯ものが干してあったり、プランターにネギやチューリップが植えてあったり、名前も知らない観葉植物の鉢が置いてあったりして、とてもにぎやかだった。どのバルコニーも活気があるのに、ふしぎと、住人の姿を見ることはなかった。今思えば、いやにしんとしていたとも思うが、そのときのぼくは一つ一つのバルコニーを見るのに夢中で、そうしたことにはまるで気がついていなかったと思う。母親はどうだったのだろう。仕事や引っ越しや、それらの手続きに忙しくて、やはり気がついていなかったのではないだろうか。ぼくはひとりでとりとめもない想像をして過ごすのが好きだったので、母が忙しくてあまりかまってくれなくても、たいして寂しいなどとは思わなかった。    そんな母だが、春休みのあいだはめずらしくずっと家にいた。ぼくは母と二人で段ボールから出した洋服をたんすに入れ替え、キッチンには食器や鍋やフライパンを収納し、近所のスーパーや公園まで探検したり、いっしょに食事を作って食べたりした。学校がはじまり、母の仕事もはじまったら、ぼくは放課後は学童保育に通うことになっていた。学校はどんなところだろう。学童保育はどんなところだろう。ずいぶん遠くに越してきたから、知っている友だちはいないだろうな。優しい先生がいるといいな。入学式が近づくにつれて、真新しい黒のランドセルを背負ってみては、そんなことを考えて楽しみになったり、不安になったりして、ぼくは落ち着かなかった。  忘れもしない、いよいよ明日は入学式という日の夕方、なぜかぼくは、自分たちの部屋のあるF棟の一階入り口にある、F棟集合ポストのところに、夕日を見ながらひとりで立っていた。母はどうしていたのだろう、ぼくらの住む二階の二〇二号室の西向きの窓のある小さなキッチンで、夕飯の準備をしていたのかもしれない。とにかくぼくは外で一人きりだった。  しんとして人気がないと思っていた中庭に、いつのまにか黒い人影のようなものが現れていたのだ。人影はこつ、こつ、と杖をつきながら、ぼくのほうに向かってくるのだった。西日が眩しくてはじめ見えなかったが、それは頭に笠をかぶり、からだには蓑をまとった、小柄なおじいさんだった。ぼくはその姿を見て、昔話絵本の笠地蔵に出てくるおじいさんを思い出していた。奇妙なことに、おじいさんはそのとき六歳だったぼくよりも身体がひとまわり小さいのに、頭は二倍も大きかったし、よく見ると顔はおじいさんではなく赤ん坊のようにも見えた。でも、真っ白な眉毛と口ひげとで顔じゅうが覆われているから、やはりおじいさんだ、とそのときのぼくは思った。 「雨も降っていないのに、どうしたの。」  晴れているのに蓑傘をまとっているのを不思議に思って、ぼくがきくと、赤ん坊のような老人は猿のようにきいきいと甲高い声で答えた。 「さっきまで海にいたのよ。海の方は、今日は雨なのよ。」  言われてみれば蓑も傘も濡れていてぽたぽたと雫が垂れていた。それによく見ると、茶色い枯れ草でできた蓑のあちこちにはワカメやウミブドウがたくさんくっついていた。一体、どこの海から来たのだろう。おじいさんが右手にもつ杖は、太くてごつごつした木でできていた。きっと松の木の杖だなとぼくは思った。いつだか母に連れられて松林で松ぼっくりをたくさん拾ったときのことを、その杖を見たら急に思い出したからだった。そしておじいさんの左手はというと、なんだか背中のほうに回してさっきからもじもじと動かしている。 「おじいさん、ここの団地の人?」  海に出かけて今帰ってきたのかな、と思ってそう聞くと、おじいさんは激しく何度も首を振ってうなずいた。 「そうとも、そうとも。今日はわしら団地の一同から、お前さんへの入学祝いを贈る日なのよ。そのために海に出ていたのよ。わしがその代表で渡すことになっておったのよ。ほい、これ。」  顔を赤くして、怒るように言いながら、おじいさんは唐突に左手をぼくのほうに突き出した。おじいさんが背中の後ろに隠していたその祝いの品は、ちょうどおじいさんの背丈ほどもある大きなするめいかの干物だった。裸のするめが紅白の紐で蝶結びにされている。紅白がおめでたい色だということはそのときのぼくでも知っていた。しかし、海は雨だったというのに、いつの間に干したのだろう。それとも、これは前から用意してあったものなのだろうか、少し気になったが、夕食前でおなかのすいていたぼくは、おいしそうなするめの匂いをかぎながら、素直にそれを受け取っていた。 「ありがとう。いただきます。」  受け取った瞬間から、なんだか無性におなかがすいて、紅白の蝶結びを解いてさっそく食べようとすると、おじいさんは突然、僕の目をぎろりと睨んでこう言った。 「言うなよ。」  その声がさっきまでとは打って変わって、あまりにも低くて怖い声だったので、ぼくはあぶなく手に持ったするめを取り落とすところだった。 「え?」 「おっかさんには、ぜったいに言うなよ。お前がおれたちから、するめをもらったこと。」  おじいさんは念を押すように、白ひげの中に埋もれた茶色い唇に左手の人差し指を当てるポーズをしながら、ゆっくりと低い声でそう言った。  ぼくはすこし怖かったけれど、とにかくとてもおなかがすいていたので、うん、わかった、と適当に返事をしながら、蝶結びを解いたするめを耳からかじって食べた。なんとも言えない、しょっぱくて香ばしい味が口いっぱいに広がって、ぼくは顎がだんだん痛くなるのもかまわずに、どんどん耳をかじってむしゃむしゃとするめを食べ続けた。  おじいさんは満足そうにうなずきながら、こちらの様子をずっと見ていたが、ぼくが三角形の耳を全部食べ終わるころには、いつの間にかその姿は消えていた。  するめはとてもおいしかった。今までに食べたどんな食べ物よりもおいしいと思った。あまりに夢中で食べていたので、いつおじいさんがいなくなったのか、ぼくはまったくわからなかった。  そのあと、ぼくはどうやってするめを隠したまま母の待つ二〇二号室に戻ったのだろう。はっきり覚えてはいないが、おそらく、おじいさんがやっていたように、左手で背中の後ろに隠しながら、ただいまを言ってそのまま自分の新しいベッドの下に隠したのだと思う。ぼくと母のベッドは寝室に並んでいて、ぼくのが壁際だったので、ベッドの下に隠してしまうと、大きなするめは暗闇になじんで全然見えなかったと思う。  学校がはじまると、母もまた仕事で忙しくなった。淡いベージュ色のスーツを着た母が、夕方の五時すぎになると学童保育のぼくを迎えに来て、そのあとスーパーで夕飯のお惣菜を買って二〇二号室に帰り、二人でそれを食べる生活になった。  学校がはじまって何日かたったころ、となりの席の女の子とぼくは休み時間におしゃべりをしていた。その子はみさきちゃんという髪の長い女の子で、ぼくが消しごむを机から落としたときにもにこにこしながら拾ってくれたりする、優しい女の子だった。みさきちゃんはぼくにふと、言ったのだ。 「日曜日になったらお母さんとデパートに行くんだ。じいじとばあばが入学祝いをくれたから、そのおかえしを買いに行くの。」  おかえし、と言うときみさきちゃんはとても得意そうな言い方で言った。たしかに、もらった贈り物に対しておかえしをする、ということは、とても大人っぽくてかっこいいことだ。そして、そのとき、ぼくだってお祝いをもらったのだからおかえしをしなければと気がついた。日曜日になったらぼくも、おじいさんがくれたするめのおかえしをどこかに買いに行こうと、心の中で決めた。とはいえ、お祝いのするめをもらったことは母には内緒のままにしなければならない。「おっかさんに言うなよ」とおじいさんが怖い声で言っていたのを、ぼくは忘れなかった。ぼくはおこづかいをもらっていなかったし、正月にもらったお年玉は母が郵便局に預けてしまっていたから、ぼくには自分のお金というものは一円もなかった。みさきちゃんのようにデパートで買うことはできず、自分でなにかおかえしになりそうなものを作るか、探すしかなかった。  そして日曜の朝。あれこれ悩んだ末に、ぼくは電車でひとり、海に行くことに決めていた。おじいさんはあの日、海から帰ってきて、海の恵みをお祝いにくれたのだから、おかえしの品だってやはり海のものがいいだろうと、子どもなりに考えたからだった。それに、海なら近くの駅から電車ですぐに行けることも、ぼくは春休みに母と散歩したときに知っていたから。砂浜には、遠くの島から流れ着いた宝が落ちているかもしれないから。 「クラスの友だちと公園で遊ぶ約束をしたんだ。いってきます。」  休みの日はきまって昼まで眠る母に嘘を言うと、布団の中から「行ってらっしゃい。」と寝ぼけ声の返事が聞こえた。ぼくは計画通り、母の淡い桃色の長財布からこっそりと五百円玉を一枚盗み出してポケットに突っ込んだ。そして、ブロックのおもちゃのような静かな団地を抜け出して、駅へと走った。  電車の中で、ぼくはしきりに自分の手や指先やひじのにおいを確かめていた。そのころには、自分の体のあらゆるところから、するめの匂いがする気がしていたからだった。母に隠れてベッドの下のするめを少しずつ食べ続けて、ついに前の日に、おじいさんの背丈ほどもある大きなするめを、すっかり食べ終えたところだったのだ。「あんた、最近なんだか汗くさいね。小学校では、たくさん走ったりするの?」と、木曜くらいに母が首をかしげて聞いてきたのも、おそらくするめの匂いを感じての事だったと思う。ぼくは「そうかな?朝は校庭をみんなで走ったりするけどね。」と適当に嘘をついてごまかした。もう、すっかり食べ終わったから、これ以上するめ臭くなることはないだろうと、そのときのぼくは、とくに心配もしていなかったのだ。    その日は晴れていた。海までやってくると、潮の香りと海風に、どこからか桜の花の甘酸っぱい香りが混じりあって、ぼくは久しぶりに、するめの匂いをすっかり忘れることができた。正直に言うと、おじいさんにするめをもらったあの日から、ぼくの頭はするめのことでいっぱいだった。ひと口でいいからするめを食べたい、ということしか考えられなくなっていたのだ。  おじいさんたちへのおかえしに、なにかちょうど良いものは落ちていないだろうか、たとえば大きな松ぼっくりとか、きれいな貝がらとか、珍しい形の流木とか。それよりも、乾いたするめいかがもしも落ちていたら、拾ってすぐにでも食べるのだが……いや、いけない、今はおかえしの品を探すのだ、などと思いながら、砂浜をよろよろとさまよい歩いていると、後ろから急に呼びかけられた。 「やあ、春彦じゃないか。」    振り向くとそこには、蓑傘をかぶった白ひげのおじいさんがこちらをじっと見つめて立っていた。するめをくれた張本人だ。まさかおかえしを探しに来た先で会ってしまうとは。 「雨も降っていないのに、どうしたの。」  晴れているのに蓑傘をまとって、おかしなおじいさんだと思ってぼくは聞いた。 「今から降るんだよ。」  おじいさんは、またあの時と同じ怖い声で答えた。そのとき、空と海がさっと灰色に暗くなって、遠くで雷の音が聞こえた。ぼくが驚いて見上げると、さっきまで春の色に柔らかく光っていた太陽は、墨をにじませたような黒い雨雲に隠れて、ぼんやりとした白いしみのようになってしまっていた。ぽつり、ぽつりとその黒い雲から落ちてきた雨粒が頬に当たり、あっという間に土砂降りになった。大きな波が押し寄せて、ぼくを吞み込んだ。おぼれる、と思った次の瞬間、ぼくは大きな三角の耳をはためかせ、十本の脚をぐんと伸ばして、真っ黒な海の水をごぼりとかいた。 「いかになったな。」  おじいさんの怖い声が聞こえた。いかになったぼくの身体は大きな網で捕まえられ、ものすごい力で砂浜に引きずられた。もがけばもがくほど、十本の長い脚が絡み合い、網のしめつけがきつくなっていった。苦し紛れにぐにゃりと体をねじると、蓑傘を被ったおじいさんがサンタクロースの袋のように右の肩に網を背負い、むき出しの青白い両ひざをふんばってぼくを浜に引きあげようとしている後ろ姿がさかさまに見えた。おじいさんは蓑笠の下には、ちょうど昔話絵本の中の金太郎が着ているのと同じ、赤い水着のようなものを着ていて、ぼくと大して背が変わらないのに、相撲取りのような怪力でじりじりと、土砂降りの中を少しずつ前に進んでいく。ぼくはずるずると砂浜をひきずられて、こすれた部分のいかのやわらかい皮膚がひりひりと痛んだ。悲鳴を上げて助けを呼びたかったが、いかは人間と違って声を出すことはできなかった。あまりの痛さにぼくは気を失った。                 *** 「もうすぐ、すっかり干物になるな。」    おじいさんの低い声で目が覚めた。気がつくと、ぼくはよく晴れた砂浜の、大きな干し網の上に寝そべっていた。春の陽光の下で、白いひげのおじいさんが、ぼくの顔をじっとのぞきこんでいる。いったい、いまは何時だろう。どれだけのあいだ、この干し網の上で眠っていたのだろう。お昼の時間までには家に戻らないと、母が心配してしまう。ぼくは焦って起き上がろうとしたが、身体がからからに干からびて動けない。いかになってしまったのは、夢ではなかったのだ。そう思うと耳の下にある乾いた心臓がどきりと震えた。 「ちょうど一年経ったよ。」  こんどは甲高い声で嬉しそうに、おじいさんが言った。動けないぼくを見て、赤い顔に満面の笑みを浮かべている。 「い……、一年……?」  声を出そうとしたが、身体の下の方の穴からひゅっ、と乾いた音が漏れただけだった。いかは声を出すことができないのだ。でも、おじいさんには、きちんと伝わったようだった。 「そう、おまえが海に来てするめいかになってから、ちょうど一年が経ったのよ。一年間海辺で干し続けて、おまえもりっぱな干しするめになったのよ。ことしも団地に新しい一年生がひとり、引っ越してきたから、わしは団地を代表して今からお祝いに行くのよ。」    おじいさんは興奮しているのか、顔を赤くして、荒い息遣いでまくし立てた。そして、蓑の中から紅白の紐を取り出すと、すっかり乾燥して干しするめいかになったぼくの身体にぐるりと巻き付けて蝶結びにした。 「何度あってもいいお祝いごとは、蝶結びなのよ。入学祝いは蝶結びなのよ。」  おじいさんは紅白の蝶結びにしたぼくを左手で持って背中にかくすと、駅の方に向かって砂浜を歩き始めた。波の音が遠ざかり、ぼくの身体はますます干からびていく。視界が黒くぼやけてきた。目玉もどんどん干からびて、やがてすっかり見えなくなるのだろう。ぼくは全身から力が抜けて、ものを考えることそのものがつらくなってしまっていた。もう、人間だった春彦に戻ることすら面倒で、すべてをあきらめ始めていたのだ。おじいさんはずんずん歩いて行く。団地に戻るのだろう。途中、電車がぼくたちのすぐ横を風を切って通り過ぎる音がした。おじいさんは電車には乗らず、どうやら線路沿いの草藪の中を早足でずんずん歩いているらしかった。やがてその草藪も見えなくなり、目の前が真っ暗になった。ついに目玉まで、すっかり乾燥してしまったのだな、とぼくはあきらめ半分に考えた。                   *** 「雨も降っていないのに、どうしたの。」  小さな人間の女の子の、不思議そうに聞く声がする。だめだ、おじいさんからぼくを受け取ったらだめだ、いかにされるぞ、と、ぼくは心の中で叫んだ。おじいさんは、ぼくを背中に隠しながら、一年前にぼくに答えたにのとまったく同じ言葉で女の子に説明した。 「さっきまで海にいたのよ。海の方は、今日は雨なのよ。」    嘘だ、海は今日だって晴れていた、とぼくはまた心の中で叫んだ。夕暮れ時でおなかがすいているのだろう、女の子のおなかがぐうとなる音が、ぼんやりとぼくの耳に聞こえた。 「今日はわしら団地の一同から、お前さんへの入学祝いを贈る日なのよ。そのために海に出ていたのよ。わしがその代表で渡すことになっておったのよ。」  おじいさんは僕にしたのとまったく同じ説明を、女の子にもした。団地の一同、とおじいさんは言うが、このおじいさんのほかに団地に住んでいる人など本当にいたのだろうか。少なくともぼくは、春休みのあいだ、ぼくらのほかに住人の姿なんか一度も見なかったのだ。おじいさんは「ほい」と言いながら、干しするめいかになったぼくを女の子に手渡す。女の子は嬉しそうにお礼を言って受け取ると、紅白の紐を解いて、すっかり干からびてしまったぼくの三角形の耳をむしゃむしゃと食べ始めた。痛みと恐怖と諦めの中で、ぼくが最後に思い浮かべたのは、母の優しい笑顔ではなく、赤ら顔で満足そうにうなずく、蓑傘をつけたおじいさんの姿だった。この団地の入学祝いは、こうして毎年繰り返されているのだな、と、うすれていく意識の中で、ぼくはぼんやりと考えていたが、やがて頭の中まで真っ暗になり、ぼくの意識は底の知れない深い闇へと落ちて行った。 
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