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祖父が死んだそうです。
そのことを電話越しに母から聞いた時には「そう」と気のない返事をした後、なんとなく窓の外を眺めました。冬でしたが、灰色の建物ばかりの景色……他の季節と大して違いがありません。面白みに欠けるかもしれませんが、私にはかえってそれくらいが丁度よいのです。
窓から机に目を向けると、今はもう小さな箱があります。
私はこの箱の中身を、まだ知りません。
人間山――この言葉を聞いたことがある人はいないと思います。そもそも、そんな山はないのですから、聞いたことがなくて当然です。とはいえ、祖父がまだ喉に管を通していなかった頃、“人間山”という言葉を私は聞いたのです。
私の故郷は深い山間にある町――村と言った方がいいかもしれません――にありました。
祖父の家はそこからもう少し山よりの場所にあります。私と両親が祖父の家に出向くと、祖父は決まって「ちょっと待ってな」と言って、私達を年季の入った扉の前に待たせました。それが冬の時期だとたまらなく寒く感じられ、早く入れてくれない祖父を恨めしく思ったものです。両親はそれがさも当然のように受け入れていましたが、あの暖炉の火を待ち焦がれる時間に何の意味があったのだろうかと、今となっても分かりません。
祖父の家の中にようやく招かれると、赤い顔のお化けのお面が私を見下ろします。それは、当時よりも年齢を重ねた今でも、見たことがない類のものでした。初めて祖父の家を訪ねた日は、悲鳴を上げて母の足にすがったのを覚えています。
居間に上がり、ようやくほっとすると、私は祖父にねだるのです。
――おはなしきかせて
私は、間違いなくおじいちゃんっ子でした。祖父は父や母が読み聞かせてくれるような絵本のお話ではなく、もっと特別な……血の通った話をしてくれました。私は特に、聞いたこともない野鳥の鳴き声の聞き分け方の話が好きで――というより祖父の鳥の鳴きまねが好きでした。箸が転がるだけで笑う時期があると言いますが、祖父が鳴きまねをするだけで笑ってしまう時期が私にはあったのです。
また別の冬の日の昼、祖父の家に来ていたのですが、両親が何か忘れたということで、町に降りることになりました。私は「いやっ」と言って、祖父の家から出ようとはしませんでした。寒い思いをしてわざわざ出向いたのだから、また戻りたくないという気持ちがありました。また、他にも理由がありました。
両親は少し考えるような表情をしていましたが、祖父が「別にかまわん」と言うと、笑って外へ出ていきました。私は、自分の思惑通りに事が進んだことに満足しました。祖父はよく私にお小遣いをくれようとしたのですが、両親の教育方針によって阻まれていました。ですので、こういう二人きりの状態になった時は決まってお小遣いをくれたのです。
実際、この時に私は祖父からお小遣いをもらいました。
ですが、違うものも渡されました。
――なにこれ
――帰ってから開けなさい
そう、祖父はこの時、うっすらと微笑んでいたように思います。だから、私はそれがきっといいものに違いないと思って、楽しみを取っておくことにしたのです。
小さなこどものコートのポケットに入れるには、少し大きな箱。私はそれを、何とか無理やりポケットに入れたのだと思います。
――今日は、どんな話がいい?
――おもしろいはなしがいい!
祖父は私にそう言われると、いつもわざとらしく困ったような顔をしてみせました。「うーん」と唸りながら、天井を見上げるのです。その時間が長くても、幼い私は我慢できました。祖父が必ず何か面白い話を捻り出すことを知っていたからです。
静けさの中で祖父の口が開くのを待っていると、家の外で「どさっ」という音が突然すると、私は驚いて小さく叫び声を上げました。何かが雪の上に落ちる音だったのだと思います。
そんな私を見て、祖父がようやく口を開いたのです。
――人間山って聞いたことがあるか?
私が首を横に振ると、祖父は語り始めました。
大体、このような話だったと思います。
昔、若い男が船で旅をしていました。男は怖いもの知らずで、色々な場所を訪れては面白い土産物を持ち帰っていました。
そんな愉快な旅の最中、船が嵐に見舞われました。さすがの男もその時は死を覚悟しましたが、何とか船を島につけることができたのです。砂浜の少し先に木々が生えていたので、そこまで行って船と木をロープでしっかりと繋げました。
一安心すると、濡れた身体を拭く余裕もなく、そのまま木を支えに眠ってしまいました。
どれくらい経った頃か、何か、騒がしい物音に男は目覚めました。まだ、昼なのか夜なのかも分からない暗い森の奥から何やら楽し気な音が聞こえます。
男はそれが気になってしかたがなくなり、起きてから感じていた強い頭痛も忘れて森の奥へと向かいました。物音の場所を探すのは簡単でした。大きな火を焚いているようで、明かりが感じられたからです。
男はそっと近づいていきながら、聞いたことのない言葉を耳にします。男は大抵の言葉は雰囲気で察する自信があったのですが、どうやらまだ聞いたことのないものだったようです。
男はもっと明かりに近づいていくと、大きな影に見下ろされる気配を感じました。なぜでしょうか、その影は山のような大きさでとても生き物には見えなかったのに、男はなぜか巨大な生き物に見られているような気分になったのです。
男はそれが何なのかを確かめたくなり、静かに右から回り込みました。
ちょうど火の明かりに照らされた山の斜面を見られる位置に来た時、「どさっ」という音がしたのです。山の頂上から落ちたのでしょう、男は音のした方を反射的に見てしまいました。
大きく分厚いジグソーパズルのピースにも見えたそれは、両手足が切り取られた人間でした。
もう視界の端に、それが生れ落ちた場所が映っていました。
――人間……山
全部、頭だけ残った人間が積み重なった山だったのです。
男は息を殺し、その場を後ずさりました。その瞬間、強い気配を右に感じて飛びのくと、そのまま浜の方まで一直線に走り去りました。船に飛び乗り、くくり付けたロープを切り、嵐の海へと逃げ込んだのです。振り返ると、何か大勢の黒い人影のようなものがこちらを見つめていたそうです。
……当時、幼い頃に感じた恐怖を再現するには至りませんが、こういうお話で間違いありません。
私は、この話を聞いて以来、祖父の家に行くことはありませんでした。両親から誘われても、かたくなに拒みました。そうして、二年、三年と時間が過ぎてゆきました。ようやく祖父の顔を見たのは、病院のベッドで寝た切りになってしまってからです。
あんな即興で作った、たわいもない怪談話のために、私は祖父と言葉を交わす機会を失ってしまいました。
――おじいちゃん、あの時の人間山の話、よく即興で作ったね
――はっはっは、よくできていたろう?
こんな風に笑い合うこともできなくなってしまったのです。
机の上に置いた小さな箱をしばらく見つめてから、いよいよ私は開ける気になりました。あの日からずっと開けられずにいた、私への贈り物です。
左手の平に箱をのせて、右手でその側面をつまみ上げます。
スッと箱のふたが持ち上がると、細く金色に輝く鎖が、箱の中に広がっていました。
それをつまんで持ち上げると、小さな重みを感じるのです。
「……スノードーム」
鎖に吊り下がった透明な玉……その中で雪が舞っていました。
そして、玉の底には帆を張った舟が雪の中、静かに佇んでいます。
私はそれを見て思いました。
ずっと開けずにしまっていても、雪は降り積もり続けているのです。
今までも、これからも。
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