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(七)うごめく魔女
ルルはクッキーの一つをつまんで口に運んだ。さくさくのクッキーを噛んだ途端に、バターのかおりが口の中に広がる。ちょうど良く炒られた胡桃も香ばしい。懐かしい味にしかし、ルルは鼻を鳴らした。
「……腕は落ちてないようね」
「よわーい!」
憎まれ口に等しい呟きは、無邪気な笑い声に遮られる。ルルは横目で様子を伺った。
宿屋の一室。四人用の部屋なのでそれなりに広さはあるが、取り立てて豪華でもなければみすぼらしくもない、旅人が使うには平均的な宿だった。
宿の備え付けの小さなテーブルを挟んで、その二人は盤上遊戯に興じていた。
「私が弱いというよりも、君が強過ぎるのではないかな」
クリスが苦笑した。外見からは十代後半から二十代前半にしか見えないが、若者には持ち得ない落ち着いた物腰。中性的な顔立ちをしているので性別も判別しがたい。顔の造形が美しいことも相まって、謎めいた『魔女』だった。長い足を優雅に組んで、駒を動かしている。
「そうかも。でもやっぱ弱すぎー、つまんなーい」
クリスの対戦相手――アリーはけらけら笑った。こちらは歳相応の外見と内面だ。今年で十二になることを考えると精神年齢はやや幼いかもしれない。腰まで伸ばした真っ赤な髪に、黒と赤を織り交ぜたドレス。フリルがふんだんに使われた、いかにも貴族のワガママお嬢様といった出で立ちだった。
盤上を一瞥しただけでルルはどちらかが劣勢なのかを理解し、余計に気分が悪くなった。
「ルルもやりたい?」
わざとらしく首をかしげてアリーが訊く。大きな瞳に意地の悪い光が浮かんでいるのを見逃すルルではない。
「結構よ」
「あ、負けるから嫌なんでしょー」
逆だ。勝つから嫌なのだ。勝った後の面倒さを考えただけで頭が痛くなる。残念ながらルルはクリスのようにわざと負けてやるほど優しくはない。
「ルルはずるいね。いつもいいところばっか取っちゃう」
「ずるい?」聞き捨てならなかった「あんたにだけは言われたくないわ」
「アリーはルルみたいに卑怯じゃないもん。人質とか取らないでちゃんと殺すよぅ。失敗だってしないもーん」
「まあ、そうルルをいじめるものではないよ、アリー」
口を挟んだのはクリスだった。
「ルルは任務に失敗したんじゃない。ただ、兄上殿の前では人殺しができなかっただけだ」
「はあ? あのね、」
「なに、隠すことはない」
クリスは訳知り顔で手をひらひらと振った。
「君がいつも使っているリボンが白なのは、兄上殿を慮っているからだろう? 不幸にも目の前で母上殿を焼き殺された兄上殿は、以来火はおろかそれを連想させるもの――たとえば揺らめく炎を髣髴とさせる赤いリボンでさえ忌まわしい記憶を思い起こす引き金になるんだとか。なんとも麗しい兄妹愛じゃないか」
ルルは舌打ちした。よりにもよってこいつらに知られた自らの不覚に対する苛立ちだった。案の定、アリーは目を爛々と輝かせた。
「へーえ、ルルってお兄サマのことが大好きなんだー! そいつ、魔法も使えないんでしょ? 信じらんなーい」
「だったらなんだって言うの? あんた達には関係ないでしょう」
「いや一つ気になったもので」クリスは大仰に肩を竦めた「赤いものを見るだけで身体が強張ってしまうくらいのトラウマが、たかだか数年で癒されるものなのかな?」
無駄に鋭い。誤魔化すことも億劫になったルルは、無言を貫いて扉のノブに手を掛けた。退室した者を追いかけてまで問い詰めはしないと見越しての行動だった。
「え-? あれで隠してるつもりなのぅ?」
「そう言ってくれるな。皆が皆、君みたいに『天才』じゃないんだから」
背後から聞こえる会話を遮断するように扉を閉めた。
(馬っ鹿じゃないの)
靴音も荒く宿の廊下を歩く。他の宿泊客に迷惑だとか、そういう良識的な考えはルルの中から抜け落ちていた。ロイス特製の胡桃クッキーを手にしっかり持ったままだということも。
そしてさらに残念なことに、ルルは自分がいなくなった部屋の中でどのような会話が交わされたのかも知らない。
アリーが嗜虐的な笑みを浮かべて「ルルのだーい好きなお兄サマをアリーが殺したら、ルルは怒るかなあ?」と言ったことも。
クリスが嗜めるように見せかけて「それはもう怒るだろうね。全力で君に喰ってかかるだろう」と意図的にアリーを煽ったことも。
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