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序章 囚われのお姫様
断末魔の絶叫が耳をつんざいた。
天に、そして地に轟くばかりに強く激しい慟哭は、竜語を解さない者であっても胸を押さえてしまう程の哀しみを帯びていた。
怨嗟にも似た今際の悲鳴を背景に、ジキルは突き刺していた剣を引き抜いた。迸る鮮血がジキルの金髪を、幼さの残る顔を、身に纏う旅衣を、剣を、その柄を握る手を赤く染めていく。頬にまで付着する血を拭おうともせずに、ジキルは巨体がゆっくりと倒れていく様を眺めた。
どうっ、という重量感のある音と共に衝撃で風が起こる。それさえも消えてしまえば、後に残るのは一つの死体と一人の竜殺しだけだった。
地面に横たえたまま、ぴくりとも動かない邪竜オルブライト。ジキルは注意深くその死骸を観察した。鱗は硬く、下手な剣では刃が折れてしまいそうだった。致命傷となった心臓の場所へと辿りつく。いまだ血が流れ落ちる傷口に剣を近づけると、柄にはめ込んだ宝石に淡い光が灯る。呼応するようにして傷口から光を放って現れたのは、ガラス玉に似た青い石――魔導石だった。
ジキルは魔導石を掴んで懐に入れた。血に汚れた刃を丹念に拭い、鞘に納める。大きな息を一つ。感傷を振り払うように竜の巨体に背を向けて、走り出した。
建物の構造はあらかじめ教えられているので迷うこともない。広間の奥には地下へと続く螺旋階段。底まで下りると目的の小部屋が構えていた。ただの部屋ではないことは入口に設けられた鉄格子の扉が示している。
話によれば、正面口と反対側にある裏口の二ヶ所に同じ扉が備えられている。が、裏口は生贄を入室させた時点で施錠し、逃げられなくするのだという。
正面口――錠のない格子は呆気なく開いた。ジキルは部屋に駆け込み、急止した。
燭台の明かりが照らす薄暗い部屋。ベッドもタンスも何一つない牢獄に囚われていたのは息をのむほどに美しい姫君だった。
背はジキルと同じくらいの小柄な少女。闇に溶けそうな黒髪が顔の白さを際立たせる。漆黒のドレスから伸びる四肢は白く、細い。紫水晶を彷彿とさせる瞳。こちらを見据える眼差しはやや、否かなり鋭い。
突然の侵入者に端整な鼻梁は陰りを帯びて、薄い唇が小さく動いた。
「誰……?」
「失礼致しました」ジキルは居住まいをただして名乗った「ジキルと申します」
御歳十六となられるリーファン王国第三王女、クレア=リム=レティス。先代の国王アダム=リム=レティスの御子にして第五位の王位継承権を持つ彼女は、その地位ゆえに今回の生贄に選ばれた。
何の感慨も浮かんでいない瞳がただじっとこちらを見据える。いたたまれなくなったジキルは苦笑いした。堅苦しいのは性に合っていない。非常事態なのだから多少気安く接しても許されるだろうと考えて、クレア王女に近づいた。
「えーと……あの、大丈夫ですか? 怪我とかはございませんか?」
自身が差し出した手が血に汚れているのを見て、ジキルは慌てて引っ込めた。よくよく考えれば返り血を浴びたまま姫の前に立ってしまった。いくらなんでもこれは無礼だろう。血なまぐさいものとは無縁の王女が怯えるのも無理はない。後悔するも遅かった。
「おまえは、」紫玉の瞳が逡巡に揺れる「国王陛下に命じられてきたのではないの、ですか?」
質問の意図がわからないまま、ジキルは首を横に振った。竜討伐を提案したのはジキルの方からだった。無論、この孤島に向かうまでの船や神殿内の構図を用意してくれたのは国王だが、命じられたわけではなかった。
「王の勅命を受けてはいますが、俺がここに来たのは自分の意志です」
「自分の、意志……」
茫然とジキルの言葉を複唱する。意味をはかりかねているようでもあった。が、ほどなくして、クレア王女の表情が暗く変わった。陰鬱で、どことなく意地の悪いものへ。
「一言よろしくて? ジキルとやら」
こちらの返答を待たずして姫は腕を組んで、言い放った。
「遅い」
一瞬、何を言っているのかジキルは理解できなかった。次に何故そんなことを言うのか、という疑問が浮かぶ。結果突っ立ったまま硬直したジキルを、クレアは睥睨した。
「わたくしがこの生贄の部屋に入ってから数刻は経っています。普通の娘ならば絶望してオルブライトに身を捧げていてもおかしくはない時間です」
「え……姫様?」
「たかだか背中に翼が生えた程度の飛びトカゲ相手に何をそんなに手こずっていたのでしょう。全く理解できません。助けに来るならもっと早く来るべきです。おまえが手をこまねいている間にわたくしは遺書をしたため終えてしまいました」
ゴミでも捨てるかのように無造作に投げつけられる。ジキルの胸に当たって落ちたそれを拾い上げれば、密印で封がされている手紙だった。これがその遺書なのだろう。
「まったく無意味な時間でした」
「す、すみません」
頭を下げてからジキルは思う。なんで謝っているのだろう。絶海の孤島にまで赴き、血まみれになりながらも凶悪な邪竜オルブライトを倒して、生贄として捧げられた王女様を助けた。一体どこに謝罪するべき要素があるのだろう。
ジキルが考えている間にも囚われ(ていたはず)の王女クレアは身支度を整えて、勝手に出口へと向かう。ややあって立ち止まり、怪訝そうに振り返った。
「何を悠長に突っ立っているのですか。こんなところに用はもうありません」
機敏な動作。毅然とした態度。気圧されるようにジキルは頷いた。
「あ……はい」
踵を返して進むクレア王女に慌ててジキルは付き従う。幾多の悲哀と絶望が染みついた生贄の部屋を背に。
それが、始まりだった。
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