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くだける
私は悪くないんです、あいつが、あいつが目の前でバラバラに砕け散ったから……だから……私はなにも……。
薄暗い取調室のなか、びくびく肩をふるわせてうわごとのように繰り返している女は、そのふとましい身体をパイプ椅子に埋め込むような形で座り、出された茶にも手をつけず、はあはあと息を荒くして対面するがっちりとした体躯の刑事に訴えていた。
某月某日、ある会社で女性社員が突然、大きな衝撃を与えるものなどなにもない旧社屋と新社屋をつなぐ渡り廊下で肉片と化し、その場にいた彼女の同僚らしきKという女が事情聴取を受けることになった。
刑事は極めて静かな声で「あなたは、その女性……Dさんに対してずっと体当たりをしたり、わざと小突いたりなどの行動を繰り返していたと会社のかたからお伺いしましたが」と問うた。
Kは「誰よ、余計なこと言いやがって」とがさがさと乾燥した、低い声で言うと、ぎりりと下唇を憎々しげに噛みしめた。こういう性格の人間か、と刑事は自然と厳しいまなざしになっていくのを隠せない。自分は悪くない。相手がいけない。そんな理不尽できわめて自分勝手な言い分を述べる犯人には、何人もでくわしているが、反省の色が微塵もないことが彼らの大きな特徴である。
「大げさですよそんなの、たまたまぶつかっただけじゃないですか……だってあの子、なんかこう、とろいというか、びくびくしていて視界に入るとイラつくっていうか……しょうがないでしょ、あたしもストレスたまってたんだし!」
「ストレスがたまって、そんな時に視界に入った人間に対しては偶然を装い、軽い暴力をふるってもよろしいと、Kさんはお考えなんですか?」
うう、とKは口ごもる。
基本情報を確認したところ、両親は会社を経営し、二年前より猛威をふるう感染症で次々と左前になっていく同業者が多いなか、幸いにも潤沢らしい。
それゆえに「自分は幸福と富に選ばれた人間だ」と普段から吹聴しているようなおめでたい性分で、しかも威張り散らすだけでは飽き足らず父親のコネクションで入れてもらった会社で好き勝手にふるまい、気に入らない相手はどうにかして貶めて、追い出すことぐらいしか「退屈しのぎがない」と愚痴を吐き出していたそうだ。
とてもじゃないが、好人物であるとはいいがたい評判が周囲の証言から見て取れる。
きょろきょろと落ち着きない両目は妙に吊り上がっていて、眉間には深いシワが刻まれている。常にこのような表情で、疲れないだろうかと刑事はふとそんなことを考える。自分がとやかく言えるような生活をしているわけではないけれども、ごく一般的な社会生活を過ごしている人間にしては、ややケンのある目元をしていると感じてしまった。
「砕け散った直後、あなたはDさんの眼球を踏みつぶした映像が、カメラに録画されていますが?」
「ち、違いますよ!たまたま踏んじゃっただけです!しょうがないでしょ、いきなり砕け散ったあいつが悪いんだから!どんくさい癖に、こういうときは人を脅かして、本当に嫌な女……本当、ぶつかったぐらいで……」
そうですか、と刑事はタブレット端末からある画像を見せた。
Kはぎょっと目を見張り、また、一つ覚えのように「違う……違うもん……」と繰り返した。
ディスプレイ画面にうつしだされたものは、Dの筆跡で書かれた手紙だった。
何の変哲もない白い便せんに、びっしりと書かれた文字はKがしてきた数多くの仕打ちが書かれ、そのなかに「体当たりされた場所がとにかく痛い、痛みがだんだんと広がってきている」とか書き加えられていたのだった。
「パソコンを壊す、ロッカーをゴミだらけにして水浸しにする、そのうえ体当たりする……これらすべて、ストレスがたまっていたから許されると、まだお考えですか?同僚の皆さん、黙っているだけですべて見ていましたよ。あなたがしたことだって」
「こんなこと、他の会社でもあることでしょ?」
「話をすり替えないでください、Dさんは毎朝起き上がれないほどの痛みに悩まされていたんです。身体も、それから心も。いつしかそれらの境界線がなくなって……彼女は、自分の心と同じように……」
ばからしい、とKは大声で言い放ち、鼻で嗤った。
「血はつくし、疑われるし、服は汚れるしで迷惑したのはこっちよ?むしろあたしが被害者だって、名乗り出たいぐらいだわ!ああ嫌だ、変な病気持ってたらそれこそあたしの人生、全部台無しよ!Dのやつ、大げさなこと書いてるだけに決まってんだから!」
「大げさ、ですか」
「そうよ!大げさよ!」
刑事は認めるどころか、あれこれ屁理屈をならべ、ねじまげ、自分は悪くないということを押し通そうとするKの態度に対し、静かに憤慨した。手紙はDの部屋で見つかったものであり、これが本人のものであるということは間違いないが、まさかここまで仕掛けてもKに罪の意識が芽生えないという結果は、受け入れがたいものがある。
ふう、とため息をついていると取調室のドアがコンコン、と二度ノックされた。
「しょうがない、こちらとしても種明かしをするしかないようだ……どうぞ」
失礼します、とドアを開けた相手は先ほど、Kの前で砕け散り、肉片と化したはずのDであった。ひい、とKがかすれた叫びをあげて椅子から転げ落ちる。
「姉が考案した試作品でしたが、うまく騙せたみたいですね。なかなか証拠を会社側が出してくれなかったので、ようやく罰することができます。刑事さん、ありがとうございました。会社のほうはもう少しがんばってみます、役員も謝罪してくれましたし、なにより……」
ちらりと、DがKを見遣る。
その眼は、勝ち誇ったように笑んでいた。
「皆さんが引き止めてくれました。Kさんではなく、私を」
「そうでしたか。Kさん……あなたがぶつかったDさん、実は彼女のお姉さんが作った可動式マネキンです。環境を配慮し、廃棄するときはバラバラになるようにと開発されたものでして、本物のような質感も兼ね揃えていると評判の商品だそうです」
「最低……あたしを騙すなんて、あんたみたいな地味な女が!」
尻もちをついたまま怒鳴りつけるKを、Dは哀れみをこめた眼差しで見おろす。
「痛かったことも、悲しかったことも全部本当のことだよ。大げさとか言っていたけれど、これでも大げさだと言える?」
刑事が「うわっ!」と驚いたのも気にせず、Kは着ていたブラウスを脱ぎ、キャミソールの肩ひもを包むように浮き上がる、青い内出血痕を見せた。
「あなたが体当たりしてきたところが、ずっと痛くてたまらないの。同じところばかり狙ってくるし、病院に通ったら骨にもヒビが入ってて……いま、痛み止めを飲みながら治療しているわ。ご両親は謝罪してくれました。あなたは、どうするつもりかしら?」
ぐぐぐ、と歯ぎしりをしたまま、Kは黙っていた。謝るという行為がどれほど、この女にとって恥になる行為であるかは、態度を見れば明らかである。
しかし、刑事は助け船を出すことは敢えてせず、情況を静観していた。
次に砕け散るのは、K自身であるということは、もう逃げられない未来なのだから。
軽くするのも、重くするのもまた、K自身である。
「なんで、違う、違うわ……」
いったい、なにが「違う」のだろうかと刑事がひそかに首をひねっていると、Dは静かにこう言った。
「いつもの口癖……いえ、言い訳ですよ」
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