6621人が本棚に入れています
本棚に追加
手術の当日、文乃は震える手を必死に押さえ込んで母が手術室に運ばれていくのを眺めた。
そして弘臣に負担をかけたくなくて、できるだけなんともない顔をして頭を下げる。
「母をよろしくお願いします」
顔に出さないように、声に出さないように……
少しでも弘臣が心配しなくていいようにしたかった。
「……ああ」
短く返事をして弘臣は手術に向かった。
その後をついていくように、夏海が文乃に目を合わせながらすぐそばを通る。
「あなたはここまでね」
すれ違いざまに小声でそう告げて、夏海は微笑みを向けてから手術室へ向かう。
「よろしくお願いします……」
今はこれよりほかに言葉なんてなくて、深々と頭を下げた。
この先は、文乃には『近づけない場所』だ。
『誰よりも近くにいる。……――あなたには近づけない場所でね』
夏海の言葉が胸に突き刺さる。
もう自分にできることは何もなく、ただただ待つだけだ。
母に対しても何もしてあげられない。
弘臣に対しても何もしてあげられない。
夏海のように母の病気を治せたら……
弘臣の側で支えられたら……。
そう思うのに、自分はただ待つだけで何もできない。
そんな無力さに苛まれる。
「お母さん、どうか無事に戻ってきて……。弘臣さん……っ……」
手術はその後6時間にも及び、何も手に付かずにただ待つしかなかった文乃にとっては不安に押しつぶされそうになりながら、何倍にも何十倍にも長く感じる時間だった。
最初のコメントを投稿しよう!