プロローグ

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プロローグ

 俺には元々何もなかったけれど、本当の意味で全てを喪った時、俺は人間という枠組みから欠落してしまったんだと思う。  いや、そもそも俺は一般で言うところの人間や人という範疇から考えると、少しズレている部分が多々ある。俺はいわゆる暗殺者で、人の生命を奪い取るのが任務だった。だから今まで数多くの人間を屠って来たし、これからもより多くの人間を殺すんだと、なんとなくそう思っていた。そう思えるくらいには人を死なせていたし、人の死に対して何ら興味も湧かなかったのだ。  だけどその日、俺は本当の意味で全てを喪った。きっとこれは必然だったんだろう。人の生命を刈り取り続けた罰。人を抹殺し続けた報いというものだったんだと思う。  だけど、だったらその怨嗟は、俺に向くべきだと思っていた。  任務が終わって、いつも通り尾行がないかどうか確認しながら寝床に帰った時だった。周りを逐一見回しながら玄関のドアに手をかけて、そして違和感に気付く。  血の匂い。鼻腔に染み付いた臭気。その芳醇な死の香りが、玄関の奥から漂って来ていた。  反射的に腰に提げたガバメントを取り出して、静かに銃弾が込められていることを確認する。装填に問題はない。俺はガバメントを構えながらゆっくりと玄関の扉に手をかけて、そのまま勢いよく開いた。  視界を玄関から続く廊下が占拠する。しかし内部に武装した連中は愚か人一人おらず、見た限りは無人だった。そのうえ燭台の類は付いておらず、窓から入り込む月明りだけが頼りだった。  鍵自体はかかっていない。ドアノブが壊された形跡もないので、中にいる彼女が招き入れた可能性が高かった。 俺はこんな状況でも冷静さに欠くことなく、ガバメントを構えたまま中に入っていく。  自宅の廊下を、こんなにも長く感じたことはない。延々と回廊を巡っているように感じる。いずれ血の在処に辿り着くというのに、悠長なものだった。  そして、まもなくリビングに到着する。リビングは荒れ果てていて、今朝家を出る前の統制というものは一切感じられない。やはり誰かが侵入したと考えるべきだろう。  すると、少し先の床に倒れている何かが僅かに動いたのを感じる。すぐさまガバメントをそちらに向けるが、敵対心というものはない。俺は消去法でその身じろぎした存在が彼女であることを理解して、そのまま駆け寄った。 「マリア」  声をかけてみると、彼女は少しだけ首をこちらに動かした。その様子を月明かりが照らし出す。しかし照らされた彼女の身体は、最早首しか動かせないほど凄惨な状態に陥っていた。  恐らく、何人かの男に囲われて暴力を振られたのだろう。彼女のきめ細やかだった白い肌は赤黒く変色して、目も当てられないほど腫れ上がっていた。美しかった小顔も原型がわからないほどに蹂躙されていて、男か女かの区別もつかないほどだ。そして、彼女は股間を折れ曲がった両手で押さえていた。まるで俺に見せてしまうのが恥だとでも言わんばかりに。  彼女が一体どういった仕打ちを受けたのかは、もうわかっていた。彼女の周りに飛び散った白と赤の液体がそれを雄弁に語っていたからだ。  心の内に、黒く燃え上がる炎が湧き上がる。その炎は怒りや悲しみ、復讐心や虚無感などがまぜこぜになった感情の渦であり、俺はその黒々としてねばついた感情をすぐにでも彼女を襲った連中にぶつけてやりたい気分だった。しかし目の前のもう消えてしまいそうな生命の火を、愛していた女の最期を看取らずに報復へ走る気は起らなかった。  だって、これは俺のせいだ。俺が暗殺者という仕事をしていたから、要らぬ恨みを買って、こうして彼女に魔の手が及んでしまったのだ。彼女は何も悪くない。そう、俺が悪いからこそ、俺は自分を赦せなかった。  ガバメント握りしめたまま、空いている手で彼女の頬を撫でた。白く、柔らかかった頬は赤黒く腫れ上がって、痛々しい熱を伴っていた。  彼女は撫でられたのが嬉しかったのか、腫れ上がった瞼から微かに覗く瞳を綻ばせた。その様子があまりにも胸に痛くて、俺は唇を噛みしめてうなだれてしまう。 「――ごめん。ごめんよ……」  謝罪の言葉しか、今の俺には持ち合わせがなかった。彼女には何の責任もない。ただ俺の恋人だったってだけで、このように残虐な仕打ちを受けてしまったのだ。  俺はとっくのとうに忘れていた、涙というものを思い出す。両の頬を伝う温かい液体が、彼女の小顔に零れ落ちた。  彼女は涙が傷口に染みるのか、少し顔を歪めながらも笑顔らしきものを向けてくれていた。 「シリ、ウス――。あなたで、良かった――」  それが看取られるのが俺で良かったのか、それとも最期に殺すのが俺で良かったのか。どちらの意味なのかはわからなかったけれど、どちらにせよ俺がマリアを看取る最後の人物で、マリアを殺す最初の人物であるのは変わりない。  俺は震える手を押さえながら、右手に持ったガバメントをマリアに向けた。  結局は死に至るというのに殺さないで放置しておくことは、むしろマリアへの冒涜だ。だから彼女は俺で良かったと言ったのだ。  殺されるのなら、せめて愛した人の手で――  マリアを襲った連中も、きっと俺への当てつけのために敢えてとどめを刺さなかったんだろう。俺に殺させる方が、よっぽど堪えることを理解して。残酷なようだが、この界隈では常套手段の一つだった。  ガバメントを両手で握りしめて、静かに照準をマリアの頭部に合わせる。その様子をマリアは安らかな表情で見つめていて、どこか嬉しそうに見えた。  震える指先を、歯を食いしばることで抑制しながら、トリガーに指をかけた。これを引けば、マリアは死ぬ。しかしもう殺す以外の手段はない。苦しむくらいだったら、俺がこの手で殺してあげた方が良いんだ。  傍から見たら、俺は恐ろしい表情をしていただろう。それほどまでに心の内は荒れ狂っていて、むしろ静謐なほどだった。  指先がトリガーに力を込め、遊びの部分を減らしていく。  その瞬間。 「――愛してるよ、シリウス」  小さな彼女の呟きが、俺の耳を鋭く掠めた。それと同時に、指先はトリガーを引き切っていて、乾いた破裂音が周囲に響いていた。  その日、俺は誓った。  自分のせいで恋人を死なせてしまった。誰でもない、自分自身のせいで。だからもう、俺は決して誰も愛さないと。生きている限り、冷徹に、そして冷酷に生きようと。  俺は孤独で良い。誰かを愛する資格なんてないんだ。  きっと俺は、その日人間としての何かに欠いてしまったんだと思う。  それと同時に、俺は誰かを愛するという責任からも、逃げ出してしまったんだと思う。
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