最後の旅

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 出発時刻をとうに過ぎているというのに、飛行機は駐機場から動く気配が全くなかった。  程なくして、機内のアナウンスが離陸の順番を待っている状態だと告げた。アメリカ西海岸にあるこの空港ではよくあることだ。この分だと日本到着は遅れるに違いない。千沙子は小さな溜め息とともに眉間にしわを寄せ、硬く目を閉じた。 「あーちゃん、お外の飛行機見える?」  千沙子の前の座席から年配の女性の柔らかな声がした。 「うん、飛行機たくさん!」  すぐに小さな女の子の弾むような返事が返ってきた。  着席する時にチラッと見たところでは、赤ちゃんを抱いた母親と幼稚園くらいの女の子、それに祖父母と思われる男女の五人家族が座っていた。  にこやかな表情のキャビンアテンダントが哺乳瓶を片手に近寄って来た。 「温度にお気をつけ下さい」 「ありとうございます。あ、お母さん、これちょっと持ってて。ちーちゃんがミルクを飲んで大人しく寝てくれるといいんだけど……」  顔は見えないが自然と会話が耳に入ってきた。赤ちゃんはちーちゃん、お姉ちゃんがあーちゃん、どうもこちら生まれのちーちゃんを日本にいる夫の両親に見せる為の里帰りらしい。肝心の夫は仕事の都合だろうか、同行していない。夫のいない子連れの長旅は大変なので、まず妻の両親が日本から先に来て手伝うことになったようだ。 「飛行機が一機、飛行機が二機」  祖母が小さな声で歌い始めた。幼児向けの番組で歌われているのだろうか? 歌声はすぐにあーちゃんの舌足らずな可愛い声にかわった。千沙子は思わず頬が緩んだ。  そんな中、そっと体をよじり後ろを振り返ったのは今まで一言も発さなかった祖父だった。 「うるさくてすみません」と言いながら、千沙子を含めた周りの乗客に向かって申し訳なさそうに何度も白髪頭を下げた。 「お気になさらないでください」  千沙子は微笑みながら思ったままを口にした。  似てるな……。母の腰にまとわりつく幼い千沙子と、祖父母と手を繋いで前を歩く六つ上の姉の姿が、古い八ミリビデオのような映像で網膜にはっきりと映し出された。若い頃の母は弾けるような笑顔で白い歯を見せている。  千沙子の赤く充血した瞳から、涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。声を出してはいけない。隣に座っている中年男性の訝しげな視線を感じて、慌ててハンカチで口を覆うと歯を食いしばった。   昨夜、寝入りばなにけたたましく鳴った電話のベルで、千沙子の体はびくりと震えた。案の定、日本にいる姉からだった。姉は入院している母の容態が急変したと早口で告げた。  二年前に父が他界してから、母は実家で一人暮らしをしていた。病気がわかった時には既に手遅れで、千沙子は母の顔を見たい一心で、手術や検査のたびに何度もアメリカと日本を往復した。多分、これが母に会うための最後の旅になるだろう。  千沙子の横を足早に通り過ぎようとしたキャビンアテンダントが急に立ち止まり、少し眉根を寄せて通路にかがんだ。 「お客様?」  千沙子は鼻をすすりながら「平気です。ごめんなさい」と答えた。同時に、あーちゃんの「動いた!」という浮き立った声が機内に響いた。  飛行機は向きを変えゆっくりと前進しながら離陸態勢に入った。千沙子は、もう泣かないと心に決めた。             
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