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3.
ブラッシングを開始して数分もしないうちに、申し出たことを心底から後悔した。毛量が多いせいで、すぐにブラシの歯が詰まるから面倒くさい。
柴本の全身を覆う毛は二重被毛と呼ばれるように、毛質の違う二種類の毛が生えている。
赤茶色でゴワゴワした感じのトップコートの下に、綿毛のようなアンダーコート。春になって温度が上がるにつれ、密に生えていたアンダーコートが抜け落ちるのが、今の惨状の原因だ。
10分経った辺りで疲れてきたのでブラシを置くと
「えー、もう終わり?」
心底不満そうな顔でこっちを向かれても困る。なんか飽きたと正直に申告したところ
「遊びじゃねーんだよ! しっかりやれよぉ!」
飛んでくるブーイングにイラッとする。うっせぇわ毛の生えた冷凍マグロめ! 腹いせに背中の毛に手を掛けて、一気にむしり取る。綿毛がごっそり抜けた。
「お゛っ゛♡」
隠し事のできない尻尾が、千切れそうなくらいぶんぶん揺れている。気持ちいいらしい。声まで出てるし。楽しくなって更にむしり取る。
「お゛ん゛っ゛♡」
すっごい抜ける。舞い飛んだ毛のせいで咳出ちゃう。テンション上がってきた。動画に撮ってやろうか?
「ら゛め゛♡ 社゛会゛的゛に゛♡ し゛ぬ゛♡」
おう分かってんじゃねーか。
この男は本当に器用で、わたしの情緒をかき乱すくらい他愛なくやってのける。このヤラシーヌなタラシーヌめ、今まで何人にブラッシングやらせてきた?
「今゛ま゛て゛♡ 食゛へ゛た゛♡ パ゛ン゛の゛♡ オ゛っ゛♡ 数゛な゛ん゛て゛♡ お゛ッ゛♡ 覚゛え゛ち゛ゃ゛♡ い゛ね゛ぇ゛♡」
えい。もっとむしってやる。あ、ここの毛すっごい抜ける。ヤバい、くしゃみ止まらない。
「あ゛っ゛♡ そ゛こ゛っ゛♡ い゛い゛ン゛♡」
(――中略――)
念のため言っておくが、今やっているのは換毛期のブラッシングであり至って健全なのだ。本当だよ。
気付いたときには、柴本をもう一人作れそうな抜け毛の山が出来上がっていた。
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