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バカだ、私は。どうしようもない位の年月の想いを抱えてとぼとぼ歩いている。
目の前のネイビーにあの夏のグレーを重ねる。大地はきちんと成長した。努力を重ねて真っ直ぐに道を切り開いた。とうに追いつける距離になんていない。電灯に照らされて影が伸びる、その影同士すら重ならない。黒いアスファルトに吐く息が白く、凍えた心に涙が透明の粒になって積る。
「そろそろですよ。」
一瞬振り向いた大地から透明な声がかけられる。温かくも冷たくもない声。常に機嫌のよい大地が出せる、最大限に無関心な声音が、多分これなんだと思う。それに思い至って胸が詰まる。
「はい、着きました。」
それからしばらくして、確かに私たちはうちのマンションの前に立っていた。
「あ…うん、有難う。早かった、ね。」
久しぶりに出す声がかすれないように震えないように、それだけを願った。
「早かったですかね。なら、まあ良かったです。クソ寒い中歩かせちゃったけど。」
向かい合う。でも大地の顔は電灯の逆光になっていて表情が読めない。今、どんな顔してるんだろう。どんな思いでここにいるんだろう。見上げようとしたらカサリと何かの音がした。あ、そうだ。
「あの、これ。さっき話したケーキなんだけど良かったら。」
紙袋を両手で差し出す。
「良いんですか?手作りですよね。わざわざ有難うございます。」
いかにも大地らしく丁寧に受け取ってくれる。
「私、これ好きで。自分用にも何回も焼いたりするくらいなんだ。あの、だから味は保証する、かな。」
本当は、大好きなものを大地にも食べてもらいたい、そう言いたかったのに。
「さつきサンの料理は本当にいつも美味いですから、喜んで頂きますよ。」
にこやかに言われてホッとしたのも束の間、続けられた言葉に息が止まった。
「誤解のない範囲で。」
「…」
「適正な距離、でしたよね。十分心得ていますから安心してください。」
つぶてのような言葉が次々に投げられる。今日もう何度目だろう、目の奥が熱くなる。鼻がツンとする。
「あ、それから俺四月から福岡に行きます。KDMで働くことになったんで。」
息を飲んだ。今聞いたことが音声としては耳に入ってくる。でも意味はわからない。これ以上今夜私はもちこたえられるのだろうか。身体は冷えを通り越してしびれて来たから、もう身じろぎすら出来ない。ただでくの様に突っ立っている。こんなに大きなことを告げられたというのに。KDMって。
「…KDMってあの?」
ようやく絞り出した。
「はい、北九州DMセンターです。うちの関連の。北九州って言ってもご存知の通り博多にあるんですけどね。」
「すごい、ね。」
「うーん、まあどうですかね。ただ、DM専門ですからそこは最高ですよね。治療でも教育でも研究でもより専門的にやれますから。」
「うん…念願?」
「念願って何ですか。そんなのうちの病院で、ですよ。」
瞬間悔しさが滲んだような気がした。
「だよね、ごめん。」
「別にさつきサンが謝ることじゃないですよ。俺の力不足です。」
もういつものように飄々とした声音に戻っている。
「あのイブの日、」
ヒューンと音がして自動ドアから誰かが出て来た。ドアの前に立ち止まっている私たちを一瞥してから、その男の人は寒そうに肩をすくめて歩き出した。その後ろ姿をちょっと見送ってから、大地がこちらに向き直った。
「もし鍵を受け取ってもらえてたら、KDMの事相談しようと思っていたんです。」
「えっ?」
「あ、でも却って良かったです。そんなの甘え過ぎだって気付きましたから。自分の進路なのに何でさつきサンに相談するのかって話で。焦ってたのかもしれません。」
「焦ってた?」
「突然の招聘だったんで。」
そう答えた大地の顔はやっぱり影になっていてよく見えなかった。
「まあ、今日も焦ってさつきサンを不快にさせましたよね、すみません。」
「今日も?」
大地が焦る?さっきもそうだったけど、この泰然としている人とその単語が結びつかない。
「ああ、まあそれは。ともかくそういうことなんで、残り少ないですがまだまだ宜しくお願いします。」
そう言って一歩こちらに踏み出した大地の表情がようやく見えた。いつものようににっこり微笑んでいた。
「あの、」
「はい。」
「私こそ、今日はごめんね。せっかくの美味しいお食事を…」
「さつきサンが謝ることなんて何もありませんよ。」
それはそのまんま私が大地に言いたかった。
「じゃあ、失礼します。」
明るくくっきりとした声で言うと、今にも踵を返してしまいそうだった。
「ねえ、大地、」
思ったより大声になってしまって、呼びかけたのは自分なのにすくんでしまう。首をちょっと傾げて待っているその姿に、ようやく声が出た。
「…もう戻ってこないの?」
必死に縋るような声音になってしまった。いつも陽気な光を宿している瞳がじっとこちらを見ている。深い色を湛えたくっきりとした二重。
大地、行かないで。行っちゃわないで。お願い、そばにいさせて。心の中に響き続ける想いのまま、随分長い間見つめていた気がするけれど、実際はほんの少しの間だったかもしれない。
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