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「さあ。」
今日の大地は随分と残酷だ。
「さあ、って、さあなの?」
「いや、だってこれから行くんですよ。行く前から次のことなんてわかりませんよ。」
「そんなこと言ったって…」
「どうしたんですか、さつきサン。」
何だか楽し気にこっちを見てくる。こんな時によくもそんな顔を。さっきまで冷え切っていた身体が嘘のように熱くなってきた。
「どうした、って。だってそんなこと急に言われて、はいそうですかって言える訳ないでしょう?」
「ないんですか?」
「当たり前じゃない。」
「何で?」
「だってずっと一緒にいたじゃない。」
「一緒?」
「そうでしょ?小学校からずっと同じだったじゃん。部活だって何だって。」
勢いがつき過ぎてどんな言葉遣いになってるか、もはや気にもしていられない。
「部活ねえ。」
「そうよ、バレー部。そりゃあ三歳違うから中高じゃ一緒にならなかったけど、でも大学じゃ一緒だった。」
「兄貴も、ですけど。」
「空?ああそりゃそうでしょうよ、あのバレー馬鹿がバレー以外やるはずないし。」
「バレー馬鹿って。」
クックッと笑っている。
「でもそれを言ったら大地だって相当なバレー馬鹿よね。勝負かかると荒れるし、どうしたって勝ちたいし。普段の紳士ぶりはどこへやらだもん。だからっ、」
そこで息が切れてしまった。急に弾丸のように喋り過ぎた。でもまだ腹立ちは治まっていない。
「あれ?何で今バレーの話してるんだっけ?」
「俺が部活って言ったからじゃないですか?」
語尾が揺れている。
「そう、そうだよ。でも私が言いたかったのは部活じゃなくてね、」
「はい。」
「大学、そう大学。ここでは絶対別れちゃうと思ってた。でももしかしたら、上郡先生の影響でJ大来るかなとも思った。大地、空のことも大好きだし。」
「ああ。」
「また何?相変わらず私が空のこと口にすると、何かいつもちょっとあるよね。」
「ありますかね?」
「うん。でも私ハッキリ言ったよね。空なんてもうとっくに何の関係も無いって。」
「まあ。」
「まあって、まあって何よ。私がそう言ってるんだから、信じてよねっ。」
「はいはい。」
小馬鹿にされているのか?
「ちゃんと聞いてよ。」
「聞いてますよ。で?」
「え?ああ、うん。そうだった。そうしたらJ大に大地が入ってきて、部活も、」
ブッと吹き出す音が聞こえた。
「な、何?」
「いや、部活、結構さつきサンの中でこだわりあるのかなと思って。確かにさつきサンも熱血でしたもんね、バレー。」
「え?ああ、うん、そう言えばそうだったかな?」
「キャプテンだったじゃないですか。」
「ああ、うん。まああれは。」
「兄貴もですけど。」
「だからっ、」
「わかりましたって。もう言いません。」
完全にバカにされている。
「次、空って言ったら罰ゲームね。」
鼻息荒く宣言したら、面白そうに目を細められた。
「あれ?でどこまで言ったっけ?」
何の意味であれ大地が目をすがめると、もうそれだけで頭の中が空っぽになってしまう。
「J大でバレー部ってとこですよ。」
「有難う。うん、そうだった。それで、就職先はうちかなっていうのは、それは結構確信あったかな。でももしかしたら空の後を追って聖トマスに行っちゃうのかも、とも心配したけど。」
「心配?」
「うん、でもまさか同じ消化器になるとは思わなかった。あ、でも、」
「はい?」
「時子先生が内科だから、ひょっとしてとは思ったけど。でも大地なら外科っぽいなって思ってたなあ。ね、何で外科じゃなかったの?」
「あっはっは、今それですか?」
「うん。ずっと不思議だった。」
「まあ兄貴が祖父の跡を継いだんで、順当なら俺は祖母の方かなっていうのも確かにありましたけど。一番はポリクリの時に出会ったDMの患者さんですかね。最初に受け持ったのもあるかもしれませんけど、とても印象深かったんです。DMって生活と密着しているけれど純粋に理論的なところも深くて。人間全体を診ることの出来る病気だなって思いました。それでですかね。確かに外科にも随分惹かれましたけど。性格的にも合ってましたし。」
「でしょ?絶対そうだよね。私もそうだと思ってたんだ。」
「何だか楽しそうですね、さつきサン。」
「え?ああ、そうかな。うん、楽しいかも。」
確かに心の中のことをポンポン言えるのはすっきりする。大地相手にこんなの初めてだし。
「なら良かった。」
「…大地が優しいから。」
「優しい?」
「うん。私の気持ち、いつもよく気付いてくれるでしょ。それで私が嬉しいと嬉しいって言ってくれる。だから安心。」
「安心ですか。」
「うん。なのに今日は随分意地悪だよね。私、涙出ちゃったもの。」
調子に乗ってつい口を滑らせた。途端に静かな沈黙が広がって、しまった、言い過ぎたと思う。
「すみません、本当に失礼でした。」
項垂れている大地を見て、思わず手を伸ばして腕に触れた。
「違うよ、大地が謝ることじゃない。いつまでたっても自信がなくてウジウジしてる私が悪い。」
掴んでいるすべすべのカシミヤは、でも氷のような冷たさを指先に伝えてくる。
「ごめんね、ほんとに。でも辛い、大地がいなくなってしまうのは辛い。ずっと一緒だったのに…きっと泣く。さっきみたいじゃなくて沢山。」
コートに包まれた腕を掴んだまま大地を見上げる。
「情けないね、私。ずっとずっと―」
そこで大地の人差し指が頬を撫で始めたのに気付いた。
「あの…」
途端に舌は強張り、何を続けたかったのかわからなくなる。
「さつきサン。」
「大地。」
ただお互いの名前を呼びあう。その瞳の中に入りこめたら良いのに。そうしたら福岡だってどこだってついて行ける。綺麗な瞳。いつまでも清潔で真っ直ぐなその瞳に、私はどう映っているのだろう。頬を滑る指をそっと掴んだ。
「さよならなんだね。一緒はもうおしまい。」
大地の指を掴んだまま俯くと、アスファルトに大きなしずくが次から次へと落ちて行く。
「さよなら、ですか。」
「うん。今まで一緒にいられて嬉しかった。いつも優しくしてくれて有難う。」
「お礼を言われる筋合いはありませんよ。」
「うん、でも。」
「さつきサン、」
「うん。」
「俺を見てくれませんか?」
「ダメ、無理。」
「いいから。」
大地の声の中の何かが私の顔を上げさせた。涙と鼻でぐちゃぐちゃの情けない顔を。際限なくこぼれ落ちる涙を手の甲でこする。
「泣かないで。」
ふわりと海の香りがしてそっと抱き寄せられた。柔らかく。その温かさに私は顔を覆っておいおいと泣き続けた。泣いたって仕方ないのに。泣いたって行ってしまうのに。泣いたってもう会えないのに。一緒だった日々が頭の中で次々と現れては消えて行く。混沌とした思い出の中で、グレーのTシャツにジーンズ姿の少年が照れたようにこちらを見ていた。
大地、大好きなのに、もう一緒にいられないんだね。さよならなんだね。
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