3.St. Valentine's Day

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「さあ。」 今日の大地は随分と残酷だ。 「さあ、って、さあなの?」 「いや、だってこれから行くんですよ。行く前から次のことなんてわかりませんよ。」 「そんなこと言ったって…」 「どうしたんですか、さつきサン。」 何だか楽し気にこっちを見てくる。こんな時によくもそんな顔を。さっきまで冷え切っていた身体が嘘のように熱くなってきた。 「どうした、って。だってそんなこと急に言われて、はいそうですかって言える訳ないでしょう?」 「ないんですか?」 「当たり前じゃない。」 「何で?」 「だってずっと一緒にいたじゃない。」 「一緒?」 「そうでしょ?小学校からずっと同じだったじゃん。部活だって何だって。」 勢いがつき過ぎてどんな言葉遣いになってるか、もはや気にもしていられない。 「部活ねえ。」 「そうよ、バレー部。そりゃあ三歳違うから中高じゃ一緒にならなかったけど、でも大学じゃ一緒だった。」 「兄貴も、ですけど。」 「空?ああそりゃそうでしょうよ、あのバレー馬鹿がバレー以外やるはずないし。」 「バレー馬鹿って。」 クックッと笑っている。 「でもそれを言ったら大地だって相当なバレー馬鹿よね。勝負かかると荒れるし、どうしたって勝ちたいし。普段の紳士ぶりはどこへやらだもん。だからっ、」 そこで息が切れてしまった。急に弾丸のように喋り過ぎた。でもまだ腹立ちは治まっていない。 「あれ?何で今バレーの話してるんだっけ?」 「俺が部活って言ったからじゃないですか?」 語尾が揺れている。 「そう、そうだよ。でも私が言いたかったのは部活じゃなくてね、」 「はい。」 「大学、そう大学。ここでは絶対別れちゃうと思ってた。でももしかしたら、上郡先生の影響でJ大来るかなとも思った。大地、空のことも大好きだし。」 「ああ。」 「また何?相変わらず私が空のこと口にすると、何かいつもちょっとあるよね。」 「ありますかね?」 「うん。でも私ハッキリ言ったよね。空なんてもうとっくに何の関係も無いって。」 「まあ。」 「まあって、まあって何よ。私がそう言ってるんだから、信じてよねっ。」 「はいはい。」 小馬鹿にされているのか? 「ちゃんと聞いてよ。」 「聞いてますよ。で?」 「え?ああ、うん。そうだった。そうしたらJ大に大地が入ってきて、部活も、」 ブッと吹き出す音が聞こえた。 「な、何?」 「いや、部活、結構さつきサンの中でこだわりあるのかなと思って。確かにさつきサンも熱血でしたもんね、バレー。」 「え?ああ、うん、そう言えばそうだったかな?」 「キャプテンだったじゃないですか。」 「ああ、うん。まああれは。」 「兄貴もですけど。」 「だからっ、」 「わかりましたって。もう言いません。」 完全にバカにされている。 「次、空って言ったら罰ゲームね。」 鼻息荒く宣言したら、面白そうに目を細められた。 「あれ?でどこまで言ったっけ?」 何の意味であれ大地が目をすがめると、もうそれだけで頭の中が空っぽになってしまう。 「J大でバレー部ってとこですよ。」 「有難う。うん、そうだった。それで、就職先はうちかなっていうのは、それは結構確信あったかな。でももしかしたら空の後を追って聖トマスに行っちゃうのかも、とも心配したけど。」 「心配?」 「うん、でもまさか同じ消化器になるとは思わなかった。あ、でも、」 「はい?」 「時子先生が内科だから、ひょっとしてとは思ったけど。でも大地なら外科っぽいなって思ってたなあ。ね、何で外科じゃなかったの?」 「あっはっは、今それですか?」 「うん。ずっと不思議だった。」 「まあ兄貴が祖父の跡を継いだんで、順当なら俺は祖母の方かなっていうのも確かにありましたけど。一番はポリクリの時に出会ったDMの患者さんですかね。最初に受け持ったのもあるかもしれませんけど、とても印象深かったんです。DMって生活と密着しているけれど純粋に理論的なところも深くて。人間全体を診ることの出来る病気だなって思いました。それでですかね。確かに外科にも随分惹かれましたけど。性格的にも合ってましたし。」 「でしょ?絶対そうだよね。私もそうだと思ってたんだ。」 「何だか楽しそうですね、さつきサン。」 「え?ああ、そうかな。うん、楽しいかも。」 確かに心の中のことをポンポン言えるのはすっきりする。大地相手にこんなの初めてだし。 「なら良かった。」 「…大地が優しいから。」 「優しい?」 「うん。私の気持ち、いつもよく気付いてくれるでしょ。それで私が嬉しいと嬉しいって言ってくれる。だから安心。」 「安心ですか。」 「うん。なのに今日は随分意地悪だよね。私、涙出ちゃったもの。」 調子に乗ってつい口を滑らせた。途端に静かな沈黙が広がって、しまった、言い過ぎたと思う。 「すみません、本当に失礼でした。」 項垂れている大地を見て、思わず手を伸ばして腕に触れた。 「違うよ、大地が謝ることじゃない。いつまでたっても自信がなくてウジウジしてる私が悪い。」 掴んでいるすべすべのカシミヤは、でも氷のような冷たさを指先に伝えてくる。 「ごめんね、ほんとに。でも辛い、大地がいなくなってしまうのは辛い。ずっと一緒だったのに…きっと泣く。さっきみたいじゃなくて沢山。」 コートに包まれた腕を掴んだまま大地を見上げる。 「情けないね、私。ずっとずっと―」 そこで大地の人差し指が頬を撫で始めたのに気付いた。 「あの…」 途端に舌は強張り、何を続けたかったのかわからなくなる。 「さつきサン。」 「大地。」 ただお互いの名前を呼びあう。その瞳の中に入りこめたら良いのに。そうしたら福岡だってどこだってついて行ける。綺麗な瞳。いつまでも清潔で真っ直ぐなその瞳に、私はどう映っているのだろう。頬を滑る指をそっと掴んだ。 「さよならなんだね。一緒はもうおしまい。」 大地の指を掴んだまま俯くと、アスファルトに大きなしずくが次から次へと落ちて行く。 「さよなら、ですか。」 「うん。今まで一緒にいられて嬉しかった。いつも優しくしてくれて有難う。」 「お礼を言われる筋合いはありませんよ。」 「うん、でも。」 「さつきサン、」 「うん。」 「俺を見てくれませんか?」 「ダメ、無理。」 「いいから。」 大地の声の中の何かが私の顔を上げさせた。涙と鼻でぐちゃぐちゃの情けない顔を。際限なくこぼれ落ちる涙を手の甲でこする。 「泣かないで。」 ふわりと海の香りがしてそっと抱き寄せられた。柔らかく。その温かさに私は顔を覆っておいおいと泣き続けた。泣いたって仕方ないのに。泣いたって行ってしまうのに。泣いたってもう会えないのに。一緒だった日々が頭の中で次々と現れては消えて行く。混沌とした思い出の中で、グレーのTシャツにジーンズ姿の少年が照れたようにこちらを見ていた。 大地、大好きなのに、もう一緒にいられないんだね。さよならなんだね。
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