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4.もういない
「えええーっ、上郡先生いないんですかあー?」
素っ頓狂な声が医局に響く。
「声大きい。語尾伸ばさない。」
本気で私かと思った。声のする方を見ると、何と黛が腰に手を当ててしかめっ面をしている。叱られた新人研修医はがっくりと肩を落としている。
「何人目ですかね、これ?」
「もう出せ出せ、ホームページにお悔やみを。」
「でごっそりKDMに新人持ってかれたらどーすんだよ。」
「洒落になんねえー。っていうか、上郡先生ってミスターJ落ちしましたよね?一昨年辺りから。」
なのにまだ大学で人気あんの?と騒いでいた医者の一人が、‟意気消沈”を絵に描いたらさもありなんという体の彼女に訊いている。
途端に顔を上げたその目がつり上がっている。
「ありますっ、もう伝説なんで。だから消化器内科、ものすごい倍率で。まず最初のローテが勝負だって皆言ってたのに…」
勇ましい瞳の割には語尾が震えていた。黛が若干柔らかな声を出す。
「まあねえ、その気持ち、わからないでもないわ。」
一年目にステーションで、当の本人が玉砕したことを思い出してこっそり笑うと、ギロリと音がするような視線を放られる。
「小笠原先生、何か?」
慌てて口を押えた。
「あ、いえ何でも。」
「って言うか、先生のところに何か連絡来てないんですか、上郡先生から。」
だからあんたはわざとなんだか偶然なんだか、いつもギリギリをつく発言をするんだって。
「えっ?」
新人が驚いたようにこっちを見る。黛、あんた確信犯か?
「何も。」
必要最低限の返事をする。そうだよ、何にもない。あの日、送別会の夜、握手をして別れてから何も。
翌日当直勤務だった私は(無論そうでなくても)一次会で帰ることに決めていた。今日はお前を返さない、と同期やら先輩やらに絡まれ過ぎている大地を遠くに見ながら、帰りの断りを入れていると、
「さつきサン、」
と目の前に大地が立っていた。あれ?ついさっきまでずっと向こうの方で肩を組まれたり背中を叩かれたりしていたなかったっけ。
「はい。」
驚いたまま、目の前に立った人を見上げた。
‟大地の”送別会だなんて現実味がない。夢だと言われた方がよほど現実的だ。なのに大地はいつものようにすっきりと、輪郭を明確にして立っている。その人望を示すように、上の先生たちも随分出席したから(ヒキガエルでさえ)、トップグレーのスーツにきちんとネクタイを締めている。水色のワイシャツによく映える明るい青色のネクタイ。大地の明るくて華のある雰囲気にネクタイの光沢がよく似合っている。当たり前だけどもうTシャツじゃない。同じグレーの色でも。少年なんかじゃなくてれっきとした医長だ。
「今までお世話になりました。」
立ち姿と同じようにすっきりと、手がこちらに向かって伸びてくる。研修医の時、指導する肩越しに緊張しながらもきちんと動いていた手。後期には、もう何十年も前からこの手技をこなしてきましたと言わんばかりにスムーズに動いていた手。一度だけ触れて愛でたことのある手。その持ち主のように温かで信頼できる手をそっと握った。
「こちらこそ。福岡でも頑張って。」
今日は泣かない。少なくとも一人になるまでは。そう決めてきたから、笑顔だってちゃんと作れた。意味のない、ウソつきの、でもきちんと門出を祝う笑顔を浮かべた。そんなこと何もかもお見通しのはずなのに、大地はいつものようににっこりと笑顔を返してくれた。
多分同時だったと思う、手を離したのは。何の余韻もなく、そのまま大地はやっぱり酔っぱらいたちに連れ去られて行ったし、私はその背中を見送り、駅の方へと身体を反転させた。ぐったりと重い身体を引き摺るように、ただひたすら足を前に繰り出すことだけを考えて歩いていると、軽めのきびきびした足音が追いついて来た。何も言わずに隣を歩いてくれる。こらえていた涙がボタボタと頬を伝う。強い春の夜風に髪が乱され、涙で張りつくのが鬱陶しく、何度も払うのだけれど払ったそばからベタベタとまとわりつく。
「もういや、髪切るっ。」
誰にでもわかる鼻声で叫べば、
「バレッタはどうすんの。」
と冷静に問い返される。
「もういいっ、どうせしてもしなくても何も変わんないもの。」
まるで癇癪を起した子どものようだ、これじゃ。
「ふうん。じゃあ切れば?」
そっけない言葉とは反対に私の背中を撫でる手は優しい。その手に甘えるように、また涙が落ちた。
大地が、大地が本当にいなくなる。
ショートにするのなんて、バレーをやっていた頃ぶりだから大学卒業以来か。美容院で妙に軽くなった頭を調子に乗って左右に振ってみた。髪の毛の重量、侮れないな。身体全体が軽く感じる。ひんやりとしたむき出しの襟足をさらさらと撫でてみて、唐突に気付いた。
あ、しまった。これじゃ、まるで―
「うわ、やっぱさつき先生、大失恋って感じですかあ?」
翌朝一番、当然のように黛に喚かれた。あ、おい、バカ、と気まずそうに空気に飛び交う幾つもの視線がまるで手で触れられるくらいだ。大地がいればすぐに機転を利かせてくれるのに、なに今よりによってラウンド中?そう思ってしまった自分に愕然とする。な、はずない。大地はいない、もういないんだ。だから自分で何とか切り抜けなくちゃ。
「やだなあ、大失恋なんてバツイチの私に言うかな。そんなこと言ったらもう何年大失恋中なの、私。」
毒を持って毒を制す。あれ、何かちょっと違うかも。でも効果は抜群、皆が遠い目になっている。きっと私がいつ離婚したか思い出そうとしているに違いない。
「そう言えば高光先生、再婚されましたよね。ラブラブってもう有名。」
こいつは、本当に…
「だから、黛先生、私に塩塗ってどうするの?何かの復讐?」
―珍しく絡んでますね、さつきサン―
空耳だと百も承知なのに後ろを振り向きたくなる。向いたって誰もいやしないのに、でも私は振り向いてしまう。そして誰も立っていない空間を確認する。
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